漢字の現在

第179回 生きていた漢字

筆者:
2012年4月24日

展望台の中では、朝鮮民主主義人民共和国の製品が販売されていた。購入したら、税関を通って日本国内に持ち込めるのだろうか。展示品となっていた北の種々の酒の瓶に貼られていたラベルには、漢字があった。伝統的な漢方書「東医(ママ)寶鑑」の名も印刷されていた。「平壌」の2字目は旧字体だったか、今となってははっきりしない。外国向けというわけではなさそうだが、漢字使用制限の対象外となっているのだろうか。

医薬品にも、簡体字は中国語だが、繁体字もハングルに添えられている。漢方の薬名を正確に伝えようとするためなのかもしれない。篆書体や筆字で印刷されているものは、やはり書体のもつ雰囲気を利用した、漢字圏に広く見られる方法が残っていると見るべきだろうか。

展望台には売店も設けられていた。そこでは貼り紙などに、「記念品」とあるほか、「紀年」と書かれたものもあったが、だから中国語を書いたつもりだった、とも即断しがたい。

横断幕のような「韓國傳統~」の表示は、外国人向けだろう。この3字目は、「伝」の旧字体だ。ただ、そういう掲示であっても、「松木+耳」の2字目は、中国でも日本でも見かけなくなった字であり、これで誰にこの植物名がきちんと伝わるだろうか。

北の文字の現状は、中国東北の平壌館に連れて行ってもらったほかは、在日の生徒さんたちが通っている、近所の朝鮮学校で行われるようになった学校開放、授業参観に参加してみるなど周辺からうかがうばかりだ。そこでは、かつての大きなハングル標示板は消えていた。各種の書籍、報道や留学生らの噂話などでも知識は増える。ある学会で、北の研究者と同席できるという予定もあったのだが、残念ながら開催自体が実現しなかったそうだ。

その土産物店では、漢字とハングルを混用したキャッチコピーだろうか、

 無방부제,無색소

とあった(写真)。これは珍しいが、「防腐剤」(bangbuje)・「色素」(saekso)は、「無」と同じく漢語であってもハングル表記であるところから、漢字で韓国人向けに、無いという意味を強調して示してみたのだろう。1字だけ漢字表記という特色がここにも見て取れた。「옥(玉)」は、和語の「たま」とは違う宝石の「ギョク(ok)」であるところから、やはり漢字で補う必要があるのだろう。

「無」は強調のため漢字に?

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【「無」は強調のため漢字に?】

 大韓國人!

トイレの中で貼り紙にあったこの呼びかけの表示は、明らかに韓国人向けの韓国語を漢字だけで表記した、珍しいものだった。

 囍(ソ一2つは十2)(写真)

 福(写真)

 お守りに記されている漢字は、中国やベトナムとよく似ている。ただ、これらも果たして北の製品で、南向けの商品なのかどうか、説明書きがないため、よく分からない。

縁起物にはやはり「福」「囍」

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【 縁起物にはやはり「福」「囍」、ただし小さい。】

「福」は、韓国の新年賀詞の決まり文句の中にも

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【 なお、「福」は、韓国の新年賀詞の決まり文句の中にも。】

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【 장애인は障碍人(障害者)。ここで「昇降機」とあるのは、漢字を貼り間違えた?】

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。