日本語社会 のぞきキャラくり

第85回 指定が部分的な発話キャラクタ(下)

筆者:
2010年4月11日

では、このへんで復習を兼ねて、ひとつ問題をやってみましょう。

(問い) 次の文章を読んで、「私」が下線のように「体面上そうそう頭をさげてゆくこともならず」とあるのはどういうことか、説明しなさい。

 子供の社会は犬の社会と同様にひとりの強い者が余(よ)のものを一度に尾をまかしてしまう。荘田がいなくなってから一人天下になった私はみんなの従順なのをいいことにしてかなり暴威(ぼうい)をふるったもののその年ごろの餓鬼大将(がきだいしょう)としては最も訳のわかったほうであったと自らゆるしている。
  [中略]
 そのころ西隣へ縫箔(ぬいはく)を内職にする家がこしてきてそこの息子の富公(とみこう)というのがあらたに同級になった。彼はさっぱり出来ない子だったが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽(たちま)ち級の餓鬼大将(がきだいしょう)になった。で、自然私はこれまでのように権威をふるうことができないばかりか体面上そうそう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はずれの形になってしまった。

[中勘助『銀の匙』1913]

(解答例) 文章の前半部にあるように「私」はそれまで餓鬼大将で、同級の誰に対しても、格の高い『目上』として接していた。注意すべきは、この『目上』とはスタイルではなくキャラクタだということである。つまり私が『目上』なのは、本当は変わり得るのだが変わらないことになっているものであった。そこへ自分より強い富公が転入してきたからといって、「私」が富公に『目下』としてヘコヘコ接するのは、これまでの『目上』キャラの私を知っている皆にとっては(それが何事であるかはすぐ察しがつくはいえ)気まずいこと、私にとっても恥ずかしいことである。だから皆の手前、『目下』キャラを発動させることはなかなかできない、ということ。

いかがでしょうか。中勘助の『銀の匙』は子供の世界を子供の目で描いたと評されている作品で、問題文の前半はその第43節から、後半は第49節から抜粋しました。これは100年も前の作品ですが、私たちの子供時代を思い返してみても、子供の世界というのはそれなりに複雑で、そこにはさまざまな「体面」がありましたよね。その「体面」の中にはこのように、キャラクタに関わる部分もあるということ、これは以前にも触れましたが(第23回)、大人になってから社会人の心得として学ぶというようなものではなくて、ごく幼い頃から、私たちが悟ってしまっているもののようです。

餓鬼大将のようなボスの座からの転落については、実は前にも述べたことがあります(第51回第52回「『上』から『下』へ?」)。長い船上生活の中で、若く美しい早月葉子にボスの地位を脅かされ苦悶する『或る女』の田川夫人、「休場」や「引退」はあっても「降格」つまり「格」下げはあり得ないとされている横綱、これらは「体面上そうそう頭をさげてゆくこともならず」の「私」と、基本的には同じものではないでしょうか。だとしたら、それをとらえるには、「田川夫人が上品な女性だが「私」や横綱はそうではない」といった「品」や「性」の値の違いや、「田川夫人は老年だが「私」は幼く、横綱はどちらでもない」といった「年」の値の違いは放っておいて、ただ「格」の観点だけから、「目上」と「目下」を論じるのが便利ではないでしょうか。前回述べた「値を指定しなくてもよい」という措置は、このような考えによるものです。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。