ドイツ語の gehen / kommen と日本語の「行く」/「来る」を比較してみると、基本的用法は同じである。つまり、話し手が視点の中心となって主語の移動を表現する場合、話し手から遠ざかる動きは gehen /「行く」で、話し手へ近づく動きは kommen /「来る」となる。
Der Herbst ging, der Winter kam.
秋は去り、冬が来た。
しかしドイツ語と日本語とでは、違いもある。話し手が視点の中心となっている場合、主語が聞き手へ近づく動きは、日本語では「行く」だが、ドイツ語では gehen ではなく kommen を使用しなければならない。これについて、クラウン独和辞典第4版では次のように述べられている。
Kommst du auch? ― Ja, ich komme gleich.
「君も来るかい」「ああ、すぐ行く」
この場合 Ja, ich gehe gleich. と答えるのは間違いである。なぜなら、この場合の kommen は、英語の come と同じく、相手の方へ(ないしは相手の意中の場所へ)「行く」ことを意味するからである。
このような用法は、普通は敬意表現として説明される。この説明によると、本来視点は話し手にあるのだが、主語が聞き手に近づく動きを表現する場合に限り、視点を聞き手に移して聞き手への敬意を表現する、ということになる。つまり文法的体系としては敬語は日本語の方が遙かに複雑な仕組みを持っているのだが、kommen に関しては必要な視点移動が、日本語の「来る」には存在せず(ただし日本語でも数多くの方言では、このような視点移動が存在することが知られている)、敬意を表現できない、ということになる。
しかし kommen における視点移動は、随意的ではなく義務的である。これが現在でも敬意を表現しているとするのなら、聞き手へ近づく動きであってもあまり敬意を表現したくない場合には gehen のままでいいはずなのだが、実際にはそれは不可能である。
ドイツ語で視点が関わる表現は、移動動詞に限られているわけではない。たとえば誰かがドアをノックした場合、
Herein! (ノックに対して)お入りください。
と答えるのだが、視点は話し手にあるままで、聞き手への視点移動は起こらない。この場合、どうして視点を聞き手に移して(Hinein!)聞き手への敬意を表現しないのだろうか。
つまりドイツ語における視点移動は、kommen の場合は義務的で、herein の場合は不可能なのである。その起源はともかく、現在では kommen に関する視点移動を「敬意表現」として説明するのは無理があるようだ。