「知と行」を検討中の西先生は、続いてこう述べます。
君子は和而不同、小人同而不和と、是則ち表裏なり。故に學は善惡ともに知らされは其用なりかたし。其等を知り而して行ふ、之を術と云ふ。
(「百學連環」第15段落第3~5文)
訳してみます。
〔『論語』に〕「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というが、これはつまり表裏のことだ。こういうわけで、学では、善も悪もどちらも知らなければ、うまく役立たないのだ。そのことを知り、そして行うこと。これを「術」と言うのである。
これは『論語』の「子路第十三」からの引用です。「君子」と「小人」が対比されていますね。徳の高い人は、和して同ぜず。つまり、他の人たちと協調(協力)はするけれど、だからといってむやみと同調(雷同)するわけではない。それに対して、徳の低い人は、同じて和せず。つまり、他の人たちに同調はするけれど、協調はしないというわけです。
この両者、つまり君子と小人は、表裏だと西先生は言います。どういうことでしょうか。両者はやることが逆なんだから、表裏だろうと言えばそうなのですが、私などはつい意味に引きずられてしまいます。そこで頭を整理するために、こんなふうに書き換えてみました。
A | B | |
---|---|---|
君子 | ○ | × |
小人 | × | ○ |
わざわざこんなことをせずともよさそうなものではありますが、ここまで形式化してしまうと、表裏であることもよく見えます。また、このように表現してみると、現実にありうるかどうかは別として、論理的にはAもBも○の場合、AもBも×の場合もありうるということも目に入りやすくなります(それぞれどういう場合なのかは、読者諸賢の考える楽しみのために措きます)。
しかし、なぜここで「和而不同」が引用されたのでしょうか。単に表裏関係の例として持ち出されたのか、それとももう少し別の意図があるのか。そういえば、「表裏」という表現は、前回読んだ文章にもありました。訳文をもう一度読んでみます。
知については、上に向かう場合を知るだけでなく、それが下へ向かう場合についても知らなければならない。例えば、「善」について知るのであれば、同時に「害」についても知るようなもの。〔知の〕表裏を両方とも知るのでなければならない。
(「百學連環」第15段落第1~2文の現代語訳)
こと知に関しては善悪(害)や表裏を共に知るべし。これが西先生の主張でした。
「知る」ということに即して考えるなら、この「和而不同」のくだりで、君子と小人の両者が併置されていることがポイントではないかと思います。もしここで小人の例を出さず、君子についてだけ「和して同ぜず」と記されていたらどうでしょうか。上に掲げた表で言えば、「君子」の行だけがあって、「小人」の行がない状態です。
もちろん、「君子和而不同」だけでも、ここから「そうではない状態」を推し量ることはできます。しかし、「小人同而不和」が併置されてこそ、「君子和而不同」がどういう状態であるかということが、いっそうはっきりするのも確かです。要するに比較によって「君子」と「小人」が互いに強調し合うのです。
『論語』では、しばしばこうした対比が用いられています。例えば、「為政第二」にはこんな文言が見えます。
子曰、君子周而不比、小人比而不周
(子曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず)
ここで「周」とは、分け隔てなく広く交わりを持つこと。「比」とは、特定の相手と馴れ合う付き合いのこと。やはり両者が対比されることで、君子の広さと小人の狭さがくっきり浮かび上がっています。文章の構造としても、「君子和而不同、小人同而不和」と同じ形をしていますね。
このように考えてくると、西先生が引用した『論語』の一節もまた、それ自体が「君子」のみならず「小人」をも「知る」という形で、「上向」と「下向」の両方を知るという姿勢をとっていることが分かります。西先生は、『論語』もまた、物事の表裏を視野に入れているということを示唆したかったのかもしれません。
知(学)としては表裏、善悪を共に弁えた上で、それを活用してなにごとかを成すこと。それが「術」であるというわけです。例えば、ある技術を使ってなにごとかを成そうという場合、その良い点と悪い点、メリットとデメリットを共によく知り、勘案した上で実践に移すこと。こう言えば当たり前のことのようでもありますが、毎日あちこちで起きていることを見ていると、あながち当たり前とも言い切れないのが人間の世界であります。
さて、「知と行」にまつわる儒教の文脈からの検討はここで一旦おしまいです。次回からはまた欧文脈に戻ってゆきます。