まず、「国語辞典はどう選んだらいいのか」という話から始めます。といっても、「こういう点に注意しましょう」と、いきなりチェック項目を並べることはしたくありません。それだと、多くの項目にチェックが入った辞書がいい辞書という錯覚を与えるおそれがあります。実際には、辞書はそんなふうに序列化できるものではありません。
それよりも、むしろ、案内者である私自身のことをお話ししていこうと思います。私だって、最初から国語辞典の選び方が分かっていたわけではありません。いくつかの辞書を使ううちに、何となく、「こういう点も大事だな」と、考えがまとまってきたのです。その過程をお話しします。
そこで、いきなりですが、話は1970年代の後半までさかのぼります。
当時、小学校高学年だった私には、「自分だけの国語辞典」というものはありませんでした。たまたま家にあった辞書を使っていました。
家には、少なくとも4種類の辞書がありました。まず、母の使っていた小型の『明解国語辞典』(三省堂)。それから、祖父の部屋には、古びた『広辞苑』(岩波書店)の初版が、でんと置いてありました。
祖父は、よく懇意の本屋さんから勧められるまま、美術全集だの、百科事典だのといった大型本を買いこんでは、部屋に並べておく趣味がありました。その中には、当時刊行中だった『日本国語大辞典』(小学館)という全20巻の大部の辞書もありました。この大辞典は間もなく完結し、私の勉強部屋に並べられました。祖父としては、「お前が使え」というつもりだったのでしょうが、小学生の私にとっては飾り物にすぎませんでした。
さらにあと1つ、父が使っていた集英社の実用辞典がありました。濃い緑のビニールの表紙に『新修 広辞典』と金文字が入り、銅鏡の模様が型押しされていました。板チョコぐらいの大きさにもかかわらず、異様に分厚くて、測ってみると4センチ以上もありました。この厚みは、いかにも知識の宝庫という感じを与えるものでした。
私が最初に使うようになった辞書は、この濃緑色の実用辞典でした。父の書棚から自分の部屋に移し、学校にも持って行きました。
至れり尽くせりの1冊
同じ小型なら、実用辞典でなく、母の『明解国語辞典』を使ってもよさそうなところです。でも、これは学校の勉強に使えないことが明白でした。何しろ、「学校」の見出しのかなが「がっ こう」でなく「がっ こお」になっています。「勉強」は「べん きょお」です。
そんなばかなと思われるかもしれませんが、これは、母の辞書の初版が出たのが終戦以前であり、当時の複雑な旧仮名遣いを知らなくても、発音どおりに引けばいいようにするための工夫だったのです。その方式が、戦後の改訂版にも引き継がれたのでした。でも、1970年代の小学生である私に、これはふさわしくありません。
一方、父の実用辞典は、申し分のないものでした。第一、厚みがはんぱでない。母の辞書の2倍もあります。どんなことばでも載っているという感じがします。実際に、学校で習うことばで、この辞書に載っていないものはありませんでした。
たとえば、「せいせき」は「成績」か「成積」かと迷ってページをめくると、〈成績 でき上がった結果。できばえ。成果。〉と書いてあります。これで問題はすっきり解決です。私は、このようにして、いろいろなことばを引き、覚えていきました。
この辞書にはいろいろなサービスがしてありました。まず、モノクロながら、写真が多く載っていて、その事物が視覚的によく分かります。「原子爆弾」の項目には、キノコ雲のまがまがしい写真さえ載っていました(今の版では、写真は総入れ替えされています)。
また、それぞれの項目に英語がついていて、簡単な和英辞典にもなっています。「人間」は英語でどういうのだろうと思って引いてみると、〈mankind マンカインド〉と書いてあります。小学生の私は、「マンカ・インドというのは初めて知った。あのインドと何か関係があるのかもしれない」と、勝手に納得していました。今考えると、「human being」を載せたほうがよかったのではないかと思います。
そのほか、ペン字体も載っているし、巻末には「電報の送稿用語」もありました。電話で電報を頼むとき、「ア」は「朝日のア」などと伝えるのです。これを覚えたおかげで、「為替のカ、英語のエ、れんげのレ」(帰れ)などと、今でもさっと言うことができます。
『広辞典』は、これほど至れり尽くせりの辞書でした。この1冊さえあれば、ほかに国語辞典はいらないと思われました。