実用辞典について、もう少しくわしく話しましょう。
一般に、国語辞典をテーマにする文章では、実用辞典について触れることはあまりありません。英語やペン字、その他の付録は便利だとしても、国語辞典としては論ずるまでもないかのように、無視して通りすぎます。
これは不当な扱いというべきです。その呼び名にかかわらず、実用辞典はあまり役に立たないという偏見があるのかもしれません。でも、私たちが日常の読み書きで困ったとき、実用辞典があれば、じつは、ほとんどの用は足りるものです。
たとえば、テレビを見ていると、出演者が「シンタン問屋」ということばを使い、アナウンサーが分からなかったという場面がありました。シンタンとは何か。実用辞典の『広辞典』を引いてみると、〈薪炭 たきぎと炭。燃料。〉と出ています。
あるいは、コマーシャルを見ていると、〈脂肪の吸収を抑える〉の「抑」の右側が「卯」になっていました。「こんな字だっけ?」と気になり、やはり『広辞典』で確かめると、「抑」の活字に加えて、楷行草の三体まで添えてあります。満足な答えが得られました。
このように、日常生活で出てくるささいなことばの疑問は、実用辞典でだいたい解消できます。「国語辞典入門」の趣旨から外れそうですが、何千円も出して国語辞典を買いたくないという人は、千何百円程度で買える実用辞典を1冊持っておけば、そんなに困ることはないはずです。
このことは、実用辞典の内容が国語辞典と同じだということを意味しません。実用辞典は、その価格に見合う程度に、「実用上はあまり必要がない」と思われる要素は大胆に削ってあります。その結果、一般の国語辞典ならば少なくとも6万語以上のことばを載せるのに対し、実用辞典は3万から5万語程度のことばに止まっています。
私が小学生のころ使っていた『広辞典』は、国語辞典を上回る分厚さで私を圧倒しましたが、それでも、実際の収録語数は4万5000語にすぎませんでした。厚手の紙を使っていたので、全体も分厚くなっていただけのことでした。後に、語数は5万語まで増えましたが、紙が改良されたため、かえって1センチ近くも薄くなりました。
実用辞典は「いらないことば」を削っている
実用辞典で削られている「いらないことば」の筆頭は俗語です。たとえば、「すってんてん」とか「からっけつ」とかいう語を引いても出てきません。もっとも、こんなことばは手紙にも使わないし、漢字を調べる必要もないので、載せなくても正解ともいえます。
また、派生語も多く省略されます。ふつうの国語辞典には「広がる」も「広げる」も載っていますが、『広辞典』には「広がる」しかありません。「広げる」は「広がる」の意味から類推せよということでしょう。
多少困るかもしれないのは、新しいことばが載っていないことです。『広辞典』の最新の第五版補訂版は2009年に出ていますが、これには「インターネット」「携帯電話」「財務省」など、ここ10年前後で広まった新語が入っていません。今の国語辞典なら、たいてい入っている項目です。実用辞典は、国語辞典ほど項目の入れ替えを頻繁に行わないため、こういう部分が出てきます(初版の新しい実用辞典は別です)。
もっとも、インターネットや携帯電話のことは、私たちはよく知っています。事改めて確かめる必要もないので、実用辞典にはなくてもいいかもしれません。「携帯」ということばは載っており、字を確かめる役には立ちます。
つまり、実用辞典に載っていることばは、ひと言で言えば「学校の国語のテストに出てくるような、常識の範囲のことば」と考えれば間違いありません。「『成績』と『成積』のどちらが正しいか」「『シンタン問屋』とは何か」「『脂肪の吸収をオサえる』の『オサえる』はどう書くか」など、これまで挙げてきた例は、知らないとちょっと恥ずかしい、常識に属するものです。こういった問題は、実用辞典で見事に解決できます。大学入試の漢字の答え合わせをするのにも、実用辞典で十分間に合います。
実用辞典が「学校の国語のテストに出てくるような、常識の範囲のことば」を載せているならば、小学生や中学生が勉強のためにこれを使ってもいいはずです。小学生の私が、いわゆる学習国語辞典を使わずに、『広辞典』を使っていたのは、それなりに合理性があったわけです。
ただ、私は、中学に上がるころから、次第に『広辞典』に不満を感じるようになりました。ある理由で、自分のために新しい国語辞典がほしくなったのです。