雪山の賭けの途中で定子が内裏に参入したことは、歴史上、重大な事件だったと前回書きました。それは、長徳の変以降に定子が初めて参内したことを言っているだけではありません。現存している他の歴史資料に見えず、『枕草子』のみに記されているこの時の定子参内が事実であったことは、同年冬に一条天皇の第2子が誕生することによって証明されます。生まれたのは男児でした。定子腹の第一皇子の誕生は、中関白家再興の可能性が生まれたことを意味しています。つまり、道長に傾いていた政権の行方を中関白家に引き戻しかねない重大事件だったのです。
長保元年11月7日敦康(あつやす)親王誕生の日、宮中では道長が、一条天皇の御前に多くの殿上人を集め、長女彰子の女御宣下の儀を挙行しました。皇子誕生の当日に合わせて、12歳の娘を天皇后にする道長の焦りが推察されます。
ところで、『枕草子』の日記的章段では年月日が明確に記された章段はそれほど多くありません。特に日にちまで記されるのは、特別な行事が行われたか、何らかの事情でその日を書きとめる必要がある場合と考えられます。しかし、雪山の段では、12月中旬に大雪が積もった日から清少納言が予想した雪山消失の当日まで、作者は日にちを詳細に追って記しています。話の展開が、賭けの勝敗を決する日に向かって進められているのですから当然なのですが、その日にち記載の途中に定子参内の日付が入り込んでおり、それが特別なこととして扱われていないところに、かえって問題がありそうです。
中関白家に重大な慶事をもたらすことになる定子参内は、『枕草子』に書きとめる必要のある記事だったと考えます。『紫式部日記』が彰子の産んだ敦成(あつひら)、敦良(あつなが)両親王の誕生記録であることから見れば、『枕草子』にも敦康親王誕生の記事があってもいいと思われるのですが、それはありません。そもそも皇子誕生の事実こそ、道長の政権掌握を最も脅かすものでした。その記事を書くことは、すでに政権の中心にある道長を刺激することになります。当時の社会情勢から考えて、敦康親王の身の危険を招く不安もあったでしょう。そこで作者は、雪山の賭けを利用して皇子誕生の発端となる出来事、つまり天皇の要請による定子参内の日を暗に示しておいたのではないでしょうか。
そのように考えると、この段の登場人物の中に、内裏の一条天皇と職曹司の中宮定子を結びつける役割を担った人物がいることに気付きます。それは、天皇から定子への文を届けにきて清少納言に歌を詠みかけた式部丞忠隆と、定子から常陸の介の話を聞いて興味を示す天皇付きの女房右近内侍です。ちなみに常陸の介は、ここで右近登場を導く役目を担っています。
『枕草子』の記事からは、一条天皇がこの時、政治的状況によって長い間、仲を引き裂かれていた最愛の妻に何とかして会おうと思い、忠隆や右近という身近な使いを職曹司に遣わして、内内に定子参内を働きかけていたことが読み取れます。作者はそのことを、自分自身の笑い話として展開していく雪山の賭けの話に取り込んで、しっかりと書き記したのだと思います。