長徳4年12月中旬、京都に大雪が降りました。大雪といっても、平安貴族たちの日常に一興を添える程度の量だったようで、あちらこちらの御殿の庭で雪山が作られたと、内裏からの使者が清少納言に話しています。
職曹司の女房たちも、最初は下級の女官たちに雪を運ばせ、縁側に小さな山を作っていたのですが、そのうち、庭に本当の雪山を作ろうということになり、本格的な雪山作りが始まりました。
雪山作りの作業は中宮からの命令として下されたため、清掃係りの宮中役人や職曹司勤めの役人が次々と集まって、日当まで補充されることになります。それを聞きつけた者がさらに加わって、総勢20名ほどの男たちの手で制作したというのですから、かなり大きな雪山が完成したことでしょう。
職曹司の役人たちが報酬を受け取って退出した後、中宮定子は女房たちに、「この雪山はいつまで消えないであるかしら」と問いかけます。女房たちが、「十日はあるだろう」「十数日はあるだろう」など、年内の期日ばかりを予想する中で、清少納言だけが翌年正月の中旬という遠い日にちを答えます。中宮も「そこまではもたないだろう」と思っている様子、他の女房たちも皆、口をそろえて、「年末まではもたないだろう」と言うので、さすがの清少納言も自信がなくなってきます。心中では、「あまり遠い日にちを言ってしまったかな。皆が言うように、そこまではもたないだろうな。せめて年明け早々と言えばよかった」と後悔するのですが、そこは彼女らしく、「一度口に出したことは撤回しないでおこう」と意地を張ります。
さあ、雪山の賭けの始まりです。二十日頃に雨が降り、雪山は少し小さくなりました。清少納言は雪深い北陸の白山の観音様に向かって祈ります。雪山は消えないまま年を越し、一日の夜には新雪が降り積もりました。しかし、賭けの約束とは違うということで、中宮からクレームがつき、新雪は捨てられました。それでも消えそうもない雪山を見て、清少納言は賭けに勝ったと思います。
賭けの決着のつく日を皆が心待ちにしていたところ、正月三日に定子が内裏に参入することになりました。清少納言はもとより中宮まで、賭けの結果を直接見られないのを残念に思うのですが、実はこの突然の中宮参内は、歴史的に見ると大変重大な事件でした。
長徳2年春、伊周・隆家の不祥事により内裏退出を余儀なくされた中宮定子は、それ以降も立て続けに起こった不幸を乗り越え、ようやく職曹司に参入し滞在していました。しかし、まだ内裏に入ることは許されない状況でした。長保元年正月の定子内裏参入は、二年近くの時を経て、久しぶりに一条天皇と中宮定子が再会することを意味しています。
清少納言もどれほどこの時を待っていたかしれません。そんな二人の再会を意味する記述が、雪山の賭けの結果が見届けられなくなる理由として、さりげなく挟み込まれているのです。この時の定子参内は、公式記録には書き留められない極秘のものだったようです。それがなぜ、『枕草子』に記されたのか。当時の歴史的背景を対照させながらこの段を読むと、作者の意図していたことが見えてくるように思います。次回に続きます。