『日本国語大辞典』をよむ

第32回 謎の専門用語[機織り編]

筆者:
2018年4月22日

明治24年に完結した、近代的な国語辞書の嚆矢として知られる『言海』の「凡例」54条には『言海』中の「文章ニ見ハレタル程ノ語ハ、即チ此辞書ニテ引キ得ルヤウナラデハ不都合ナリ、因テ、務メテ其等ノ脱漏齟齬ナキヤウニハシタリ、然レトモ、凡ソ万有ノ言語ノ、此篇ニ漏レタルモ、固ヨリ多カラム、殊ニ、漢語ノ限リ無キ、編輯ノ際ニ、是ハ普通用ノ語ナラズトテ棄テタルモノノ、知ラズ識ラズ釈文中ニ見ハレタルモアラムカ、唯看ル者ノ諒察ヲ請フ」と述べられている。ここでは、語釈中に使った語が見出しになっていないことがあることについて、「看ル者ノ諒察ヲ請フ」と述べる。

『言海』は辞書冒頭に置いた「本書編纂ノ大意」の、その冒頭で「此書ハ、日本普通語ノ辞書ナリ」といわば言挙げをし、「普通語ノ辞書」であることをつよく意識して編纂されていると思われる。「普通語」を見出しとして採りあげ、その「普通語」に語釈を附すにあたって、見出しとした「普通語」をわかりやすく説明するのだから、見出しよりも「難しい」語を使うことはないともいえようが、必ずしもそうとばかりはいえないだろう。わかりやすい語で説明することには自ずと限界があって、漢語による置き換えをしなければ説明できないということもあるのがむしろ自然ではないかと考える。

辞書編纂者が、「釈文中」(=語釈中)に使った語が見出しにないことを気にするのは、辞書が「語を説明するツール」として完結していることを「理想の姿」として意識することがある、ということを示していると考える。山田忠雄は『近代国語辞書の歩み』(1981年、三省堂)において、自身が編集主幹を務めていた『新明解国語辞典』の名前を挙げ、「最も進歩していると評される 新明解国語辞典 といえども、語釈に使用した かなりの語は見出しから欠落せざるを得なかった」(563ページ)と述べており、上のことを意識していることを窺わせる。

筆者は、ある辞書において、語釈中で使われている語がすべて見出しになっているということは、「理想」ではあろうし、それを目指すことももちろん「尊い」と考えるが、それを完全に実行することは難しいだろうと思う。今回はそうしたことにかかわることを話題にしてみたい。

ゆみしかけ【弓仕掛】〔名〕竹を弓のようにたわめ、その弾力を利用して、杼道(ひみち)を作る綜絖装置を上昇させる手織機の一部分。

語釈中の「ヒミチ(杼道)」はなんとなくわかるにしても、「綜絖(装置)」とは何だろうと思って、『日本国語大辞典』の見出しを調べてみると、次のような見出しがあった。

そうこう【綜絖】〔名〕織機器具の一つ。緯(よこいと)を通す杼口(ひぐち=杼道)をつくるために、経(たていと)を引き上げるためのしかけ。主要部を絹糸・カタン糸・毛糸・針金で作る。綜(あぜ)。ヘルド。

「ゆみしかけ」の語釈と「そうこう」の語釈とを組み合わせると、「よこいとを通す杼口=杼道をつくるために、たていとを引き上げるためのしかけを上昇させる」のが「ゆみしかけ」ということになるはずだが、それでも筆者などには「全貌」がつかみにくい。専門用語を説明することは難しそうだ。それは、結局、専門用語や学術用語は、一般的に使われている語で単純には説明しにくいから「専門」であり「学術用」であるという、いってみれば当然のことであるが、そういう語だからであろう。専門語による専門語の説明という「環」からなかなか抜け出すことができない。

見出し「そうこう」の語釈末尾に置かれている「ヘルド」は外来語による置き換え説明であろうが、(別の語義の「ヘルド」は見出しになっているが)この語義の「ヘルド」は見出しになっていない。やはり、語釈中で使う語をもれなく見出しにすることは難しいことがわかる。

さて、『日本国語大辞典』のオンライン版が備えている検索機能を使うと、「そうこう(綜絖)」が語釈あるいはあげられている使用例中に使われている見出しを探し出すことができる。16の見出しの語釈中、使用例中で使われていることがわかる。幾つかあげてみよう。

あぜ【綜】〔名〕機(はた)の、経(たていと)をまとめる用具。綜絖(そうこう)。

あやとおし【綾通】〔名〕機(はた)の綜絖(そうこう)の目に経(たていと)を引き込むのに用いる器具。また、その作業。

せいやく【正訳】〔名〕正しく翻訳すること。また、正しい翻訳。(略)*女工哀史〔1925〕〈細井和喜蔵〉一六・五四「原名のHeldは之れを正訳すれば綜絖となるのだが京都府地方では『綜』、〈略〉名古屋以東では『綾』と称へて居るのである」

へ【綜】〔名〕(動詞「へる(綜)」の連用形の名詞化)機(はた)の経(たていと)を引きのばしてかけておくもの。綜絖。

見出し「あぜ」と「へ」の語釈からすれば、この2つの和語が漢語「そうこう(綜絖)」に対応しているようにみえる。そうであった場合は、「あぜ」と「へ」とは同義かどうかが気になる。見出し「あやとおし」は「そうこう(綜絖)」に「経(たていと)を引き込む」器具というものが(まだ)あることを示している。機織りは奥が深い。見出し「せいやく(正訳)」の使用例の中に「原名のHeld」がでてくる。これが先の「ヘルド」だろう。思わぬところに「ヘルド」があった。ここではオンライン版の検索機能を使ったので、この使用例を見つけ出すことができたが、通常はここにはたどり着くことはできないと思われる。『女工哀史』は岩波文庫で読むことができる。

さて、そういうことを実際に行なうかどうかは別のこととして、オンライン版の検索機能を活用すれば、『日本国語大辞典』における見出しと語釈内、使用例内で使われている語との結びつきをさらに強化することは可能ということだ。オンライン版は辞書使用者のために提供されているものであることはいうまでもないが、辞書編集者がそれを使うこともできる。

 * 

※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ //japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。