『日本国語大辞典』をよむ

第38回 地名の「意味」を考える

筆者:
2018年7月15日

よど【淀・澱】【一】〔名〕(1)水が流れないでよどむこと。また、その所。よどみ。*万葉集〔8C後〕五・八六〇「松浦川七瀬の与騰(ヨド)はよどむともわれはよどまず君をし待たむ〈大伴旅人〉」(略)(2)物事が渋り滞ること。すらすらと進まないこと。よどみ。(略)【二】(淀)京都市伏見区の地名。淀川に沿う低湿地で、木津・桂・宇治の三川の合流点付近にある。古代から京都の外港をなす淀川水運の河港として繁栄。安土桃山時代に淀城築城、江戸時代は稲葉氏一〇万石の城下町。(略)

「ヨドム」は上の名詞に「ム」が下接して動詞化した語と思われる。「ヨド」はオノマトペ語基ではないのであろうが、例えばオノマトペ語基である「キシ」に「ム」を下接すると「キシム」という動詞になる。

『日本国語大辞典』があげている『万葉集』の例中に「ヨド」「ヨドム」いずれも使われており、古くから使われている語であることがわかる。「松浦川のあまたの瀬の淀みは淀んで流れなくても、私は滞ることなく一途にあなたをお待ちしましょう」といった歌意であろうが、ここでは恋の気持ちが逡巡することを「ヨドム」と表現している。

さて、〈水などが停滞する〉という語義をもつ「ヨド」を一方に置くと、【二】としてあげられている京都市伏見区の地名である「ヨド(淀)」あるいは上の三川の合流地点から下流を呼ぶ「ヨドガワ(淀川)」もそうしたことをふまえた地名であることがわかる。地名には語義、すなわち意味はないとみるのが一般的であるが、古くからある地名は、当然すでにあった語を組み合わせて作られているはずで、地名によっては、その語義=意味を考えることができる。そして、現在の地形を考え併せることによって、「なるほど!」と思うこともある。

古い地図をみながら散歩するというようなことがされているが、上のように地名をみることは、地名の中に(古い時期に使われていた)日本語を見つけ、その語義から地形を推測するということになる。

やち【谷地・谷・野地】〔名〕(1)湿地帯。低湿地。やと。やつ。(略)

やつ【谷】〔名〕たに。たにあいの地。特に鎌倉・下総(千葉県・茨城県)地方で用いる。やち。やと。(略)

やと【谷】〔名〕谷間。渓谷。やち。やつ。や。(略)

見出し「やち」の「語誌」欄には「(1)東北方言では、普通名詞として、湿地帯を意味する。関東地方の「やと」「やつ」は、現在では「たに」と同義か。しかし、「や」は「四谷」「渋谷」など、固有名詞を構成する形態素としては存在するが、普通名詞としては使われない。(2)アイヌ語に沼または泥を意味するヤチという語があるところから、地名に多く見られる「やち」「やと」「やつ」「や」がアイヌ語起源であるとの説(柳田国男)があった。しかし、北海道の地名にこれらの語が使用されていないところから、むしろアイヌ語のヤチの方が日本語からの借用語ではないかと考えられている」と記されている。

見出し「やつ」の語釈に鎌倉があげられている。筆者は鎌倉に生まれ育ったが、筆者の実家のあるあたりは、「瓜ヶ谷(うりがやつ)」と呼ばれていた。「扇ヶ谷(おおぎがやつ)」は現在も使われている地名である。そのそばには「亀ヶ谷(かめがやつ)」がある。鎌倉は南は海であるが、それ以外は山なので、「ヤツ/ヤト」と呼ばれるような場所に人が住んでいたのだろう。「瓜ヶ谷(うりがやつ)」は「ウリガヤ」といわれることもあった。これは行政上使われている地名ではないが、そのこともあってか、この「ウリガヤツ」の「ヤツ」が子供の頃に何か気になった。気になったというのは、変な感じがしたということだ。それこそ、単独では「ヤツ」という語が使われていないというようなことだろうか。何か方言的な印象をもっていた。

実家を離れて、横浜市金沢区で暮らすようになって、京浜急行の「能見台駅」が以前は「谷津坂(やつざか)駅」という名前だったことを知った。駅前の坂が「谷津坂」で、鎌倉以外にも「ヤツ」があることがわかった。おそらく「谷」という漢字一字で「ヤツ」という発音を書くのがむずかしいので、「ツ」を明示するために「谷津」と漢字をあてたのだろう。その時住んでいた住所は「釜利谷(かまりや)」で、こちらは「ヤ」だ。

わだ【曲】〔名〕(1)地形の入り曲がっているところ。入江などにいう。(2)形が曲がりくねっていること。

平安時代の末頃から鎌倉時代にかけて日宋貿易で栄えた「大輪田泊(おおわだのとまり)」という港が神戸のあたりにあったことを日本史で習う。この「わだ」は〈地形の入り曲がっているところ〉の呼び名であろう。

「ワダ」は『万葉集』に「オホワダ」「オホワダノハマ」という語形として2例みられるが、いずれも「オホワダ」は「大和太」と書かれている。語義からすれば、「曲」と結びつくことが考えられそうであるが、それが定着しないと、結局は「大輪田」のように、表音的に漢字をあてることになる。地名においては、現在使われている漢字はいうまでもないが、かつて使われていた漢字も、語義をそのままあらわしているとは限らないという点には注意する必要がある。「輪田」だから、輪のような形をした田んぼだろうと、単線的に考えないようにしないといけない。考えを進めるきちんとした「筋道」をおさえれば、地名で遊ぶこともできる。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。