北原白秋の「落葉松」はよく知られている。一節を口ずさむことができる人は多いだろう。この「落葉松」は大正12(1923)年6月18日に出版された『水墨集』に収められている。「落葉松」は次のように始まって、8連で終わる。
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
『水墨集』に収められている第4連は「からまつの林の道は/われのみか、ひともかよひぬ。/ほそぼそと通ふ道なり。/さびさびといそぐ道なり。」であるが、同じ大正11年の8月15日に印刷出版された「白秋パンフレット2」の第4連の3行目4行目は「誰びとも通る道なり、/しみじみといそぐ道なり。」となっていて、小異がある。「雕琢の人」白秋が辞句をかえたと思われる。
さて、この白秋の「落葉松」が印象深いからかどうかはわからないけれども、「カラマツ」という語と「落葉松」という漢字列とが自身の中で非常につよく結びついていることに『日本国語大辞典』をよんでいて気づいた。それは、次のような見出しに出会ったからだ。
らくようしょう【落葉松】〔名〕植物「からまつ(唐松)」の異名。*薬品手引草〔1778〕「落葉松(ラクヨウセウ)ふじまつ 日光まつ」
考えてみれば、漢字列「落葉松」は「ラクヨウショウ」と発音するのがもっとも自然なはずだ。そのように思わなかったのは、先に述べたように、「落葉松」という漢字列と「カラマツ」という和語(和名)とがつよく結びついているからだろう。「カラマツ」という和語(和名)にあてる自然な漢字列は「唐松」であることにもあまり意識がいっていなかったかもしれない。明治24年に完結した『言海』は見出し「カラまつ」の「普通用ノ」漢字列として「唐松」をあげている。
そしてまた、使用例としてあげられている『薬品手引草』という文献が気になった。調べてみると、『日本国語大辞典』は468回、この『薬品手引草』を使用例に示している。なかには、見出し「いつかどのくだもの」、「いどう」「いぬきはだ」「うかつ」「うみやしお」「かほうぼたん」「がまらん」「かんじゅ」「きちじょうらん」「きんき」などのように、『薬品手引草』の使用例が示されているのみの見出しもある。
いつかどのくだもの【五角果物】〔名〕植物「ごれんし(五斂子)」の果実の異名。
いどう【椅桐】〔名〕植物「いいぎり(飯桐)」の異名。
いぬきはだ【犬黄蘗】〔名〕植物「めぎ(目木)」の異名。
うかつ【烏葛】〔名〕植物「ひよどりじょうご(鵯上戸)」の異名。
うみやしお【海椰子】〔名〕植物「ニッパやし(―椰子)」の古名。
かほうぼたん【荷包牡丹】〔名〕植物「けまんそう(華鬘草)」の漢名。
がまらん【蝦蟇蘭】〔名〕植物「やぶタバコ(藪煙草)」の古名。
かんじゅ【貫衆】〔名〕植物「やぶそてつ(藪蘇鉄)」の漢名。
きちじょうらん【吉祥蘭】〔名〕植物「きちじょうそう(吉祥草)」の異名。
きんき【錦葵】〔名〕植物「ぜにあおい(銭葵)」の漢名。
上には「異名」「漢名」「古名」という用語が使われている。原理的には「異名」という概念の中に「古名」や「漢名」が含まれそうに思われるので、どのような場合に「異名」と説明し、どのような場合に「漢名」あるいは「古名」と説明するか、という「原則」があるのであれば、凡例に示しておいてもらえると親切だろう。「凡例」にはそうした記述はないように思われるが、どうだろうか。
さて、『薬品手引草』は、今まで使ったことがない文献だったので、インターネットで調べてみてから、購入してみた。届いた本は虫損のない、いいコンディションの本だった。「銀山寺文庫蔵」「近畿漢方研究会蔵」という蔵書印が押されていた。やはり、漢方薬とかかわりがあることがわかる。上に示した例は植物ばかりであったが、『薬品手引草』には植物以外の物も採りあげられている。少しあげてみよう。
蚹蝸(ブクハ)なめくじり
蚹蠃(フラ)クハギウ也
負労(フラウ)とんぼう也
文亀(ブンキ)いしがめ也
風化石(フウゲセキ)石灰(イシバイ)也
伏翼(フクヨク)かうもり也
牛角(ゴカク)うしのつの
牛舌蜂(ゴゼツホウ)はちのす也
牛鼻津(ゴビシン)ウシノハナヨリイヅルシル
虎胆(コタン)とらのきも
胡狗(コク)バク也
「なめくじり」はもちろんナメクジのこと、「クハギウ」は「蝸牛」でカタツムリのこと、「とんぼう」はトンボだ。昆虫からカメ、石灰、蝙蝠(こうもり)、ウシの角、蜂の巣、虎の胆まで、なんでも「薬品」となっていて驚くが、「牛鼻津」にいたっては、驚きを超える。いや、実はここには書けないような物もあげられていて、「漢方薬の世界」の奥深さは果てがない。日本語という点からいえば、上の引用で気づいた方もいるかもしれないが、説明が(漢字の場合もあるが)平仮名で記されている場合と片仮名で記されている場合とがある。平仮名は和語(和名)で、片仮名は漢語(漢名)のようにみえる。徹底しているとまではいえないようであるが、ほぼそのようになっているように思われる。これは興味深い。「和名=平仮名」「漢名=片仮名」というように、和漢の対応/対立を2種類ある仮名で表示し分けているとすれば、おもしろい。
「胡狗(コク)」は『大漢和辞典』も「胡」字の条に掲げていないし、『日本国語大辞典』も見出しとしていない。「バク也」の「バク」が動物のバク(貘)だとすれば、バクの何らかの部位が漢方薬になっていたということだろう。漢方薬の名前は、通常の文献には出てきにくいことが容易に予想される。そのことからすれば、『薬品手引草』のような文献を使うことには意義がある。しかしその一方で、そこに示されている記事が妥当なものであるかどうかの確認がしにくい。『薬品手引草』が出版されてから成立した文献は、この『薬品手引草』を参照している可能性があるので、たとえば、同じような記事があったとしても、「ソース」は1つということもある。かたよりなく、語を集めるということは思っているよりも難しい。