『日本国語大辞典』をよむ

第42回 垣根で遊ぶミソサザイ

筆者:
2018年9月9日

二世竹田出雲、三好松洛、並木千柳(宗輔)が合作した浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』は1748(寛延元)年に大坂の竹本座で初演されているが、「芝居の独参湯(どくじんとう)=観客不入りの時の起死回生の妙薬」として、江戸時代に繰り返し上演された。現代においても、人形浄瑠璃、歌舞伎いずれもで人気演目となっている。

全11段構成の3段目が、悪口に耐えきれず、塩冶判官が高師直(こうのもろなお)に切りつける「足利館殿中松の間の場(通称 松の廊下)」であるが、その悪口の中に「鮒侍(ふなざむらい)」という語が使われている。『日本国語大辞典』は次のように説明している。使用例は、(もちろん)「歌舞伎・仮名手本忠臣蔵〔1748〕三段」である。

ふなざむらい【鮒侍】〔名〕世間知らずの武士をののしっていう語。

しかしこれだけだと「フナ(鮒)」がどうしてでてきたか、がもう一つよくわからない。『日本国語大辞典』の見出し「いど(井戸)」の条には次のようにある。

いどの鮒(ふな)見識の狭いこと、ひとりよがりであることのたとえ。井の中の蛙(かわず)。*浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵〔1748〕三「内に計居る者を、井戸の鮒(フナ)じゃといふ譬(たとへ)がある」

ここでは、人形浄瑠璃の例が示されているが、「井の中の蛙」と同じような表現であることがわかる。高師直は、塩冶判官の妻である顔世御前に横恋慕し、恋文を送るが拒絶され、その鬱憤を塩冶判官に向ける。顔世御前が貞女で、塩冶判官が「内にばかりへばりついている」から登城も遅れてしまう、というように、「内にへばりついている」ということがいわば「論点」で、田舎者ということは「井戸の鮒」には直接的には含意されていない。井戸の中に住むフナは、わずか3尺か4尺の井戸の中がすべてだと思って暮らしている。井戸替えの時につるべについて上がってきたフナを川に放すと、広い所にでたうれしさから、橋杭で鼻を打って、すぐに「ぴりぴりぴりと死にまする」、というようなセリフの後に、「鮒だ鮒だ鮒侍だ」というセリフが続く。

ところで、今確かめないで、記憶によって述べるが、筆者は、この「フナザムライ」という語は漫画「サザエさん」で覚えたような気がしている。「鮒侍とはあまりな雑言」というセリフだったように思う。その時は、もちろん人形浄瑠璃も歌舞伎も見ていなかったので、「鮒侍」とはどういうことか、とおそらく両親のどちらかにたずねただろう。なんと説明されたかも覚えていない。

と書いてから、やはり気になって、まず、「サザエさん」全巻を手に入れられないかと思って「日本の古本屋」という古書のサイトを調べてみた。すると、ないことはないが案外と高い。そこでヤフーオークションを調べてみると、「いじわるばあさん」など9冊もついている全68冊のセット(朝日新聞出版)が案外と安く出ていた。しかもすぐに落札可能な扱いだった。そこで、それを購入して、「サザエさん」を読み始めた。ところが、いくら読んでも上のセリフが出てこない。とうとう全巻を読み終わってしまった。勘違いだったかとちょっとがっかりしたが、念のためにと思って「いじわるばあさん」を読み始めたら、なんとその2巻(47ページ)に「フナざむらいとはあまりなぞうごん」が出てきた。記憶は少し間違っていたが、正しかった。「サザエさん」を全巻読んで、日本語についていろいろと思うところもあった。

さて、「井の中の蛙」は、『日本国語大辞典』には次のようにあり、『荘子』が出典として示されている。

いの=内(うち)[=中(なか)]の蛙(かわず・かえる)大海(たいかい)を知(し)らず (「荘子-秋水」の「井蛙不以語於海、拘於虚也」から)自分の狭い知識や見解にとらわれ、他に広い世界があることを知らないで、得々とふるまうことのたとえ。非常に見識の狭いこと。

『日本国語大辞典』を読み進めていて、次のような見出しにであった。

りあん【籬鷃】〔名〕垣根に遊ぶミソサザイ。転じて、見識の狭いもののたとえ。井蛙(せいあ)。

使用例として、「本朝文粋〔1060頃〕」や「明衡往来〔11C中か〕」「本朝無題詩〔1162~64頃〕」が示されているので、和文ではなく漢文の「世界」で主に使われていたのだろう。現在では、まず「ミソサザイ」というのがどういう鳥か、ということになりそうだ。動植物名は、日常の言語生活から急速に遠いものになってしまっていないだろうか。あるいは、先にとりあげた人形浄瑠璃や歌舞伎の登場人物やセリフなども、そうしたものに興味をもっているいわゆる「ファン」以外の人の日常の言語生活から消えているように感じる。

明治期に出版された雑誌を大学の授業で採りあげ、学生とともに読むことがある。中に先代萩の政岡、時姫、初菊といった名前がごく当たり前のように出てくる。そんな時に学生にこれが誰かわかりますか、と質問すると、だいたいの場合は聞いたことがないということになる。これが現代のごく一般的な大学生なのではないだろうか。

さて、見識が狭いことをあらわす表現は他にもある。

かんれい【管蠡】〔名〕(「管窺蠡測(かんきれいそく)」の略)くだ(管)で天をのぞき、ほら貝(蠡)で大海をはかること。見識、視野が狭いことのたとえ。

「レイ(蠡)」が〈ほら貝〉であることを知っている人も少ないかもしれない。鎌倉時代初期頃に菅原為長が編んだと考えられている、『管蠡抄』と呼ばれる書物がある。漢籍の中から、修己や治道、教養に関する名言佳句などが採録されている。そういう書物であるから、〈私の狭い視野で集めたものです〉という謙遜の表現として「管蠡」が書物の題名に選ばれているのだろう。

管でのぞくといえば、「カンケン(管見)」という語もある。これは現在でも使われている語であるが、『日本国語大辞典』には次のようにある。

かんけん【管見】〔名〕(竹のくだを通して見るの意から)(1)見識が狭いこと。あることについての視野が狭いこと。管闚(かんき)。(2)自分の知識や見解、意見などをへりくだっていう語。

「へりくだっていう語」であるので、若い人が「管見」などというと、「それは当たり前だろう」ということになってしまう。論文に「管見」と書けるようになるには、それなりの修練がいるのだ、と大学院生の頃に聞いたように思う。適切にへりくだるのも難しい。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。