『日本国語大辞典』をよむ

第53回 愛こそすべて?

筆者:
2019年2月10日

『源氏物語』「夕顔巻」に次のような行りがある。

「つきせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。いまだに名のりし給へ。いとむくつけし」との給へど、「海人の子なれば」とてさすがにうちとけぬさま、いとあひだれたり。

源氏が「延々と隠し立てなさっている恨めしさに、顔をお見せしまいと思っていたのに。こうなった今は名乗ってください。とても気味がわるい」というと、夕顔が「海人の子なので(名乗れない)」と打ち解けない態度を示す場面である。これに続く場面で「霊女」があらわれる。高等学校で使う教科書などでも採りあげられる場面である。

ここに「あひだれたり」とある。新日本古典文学大系『源氏物語 一』(1993年、岩波書店)は脚注において「まことにあいそよく戯れている」と記し、さらに『類聚名義抄』において「女×虛 アイタレ」とあり(注:×は左右の関係を示す)、また『新撰字鏡』において同じ漢字に「保志支万〻」「阿佐礼和佐須」という和訓が配されていることを紹介した上で、「「あざる」は海人にかかわりありそうな語だから、その縁で言う言葉だとするとここにふさわしい」と述べている。『日本国語大辞典』の見出し「あいだる」には次のように記されている。

あいだる〔自ラ下二〕甘ったれる。甘えてなよなよとする。はにかんでもじもじする。*源氏物語〔1001~14頃〕夕顔「あまの子なれば、とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり」*源氏物語〔1001~14頃〕柏木「かの君は、五六年のほどのこのかみなりしかど、なほいと若やかになまめき、あいだれてものし給ひし」*海人刈藻物語〔1271頃〕一「なほいと若き声の、あいだれよしめきたるが」*名語記〔1275〕九「あいだる、如何。舌のたりたる様に、物をいふ気色なるべし」語誌 「愛垂る」という語構成が考えられているが、未詳。用例が少なく語義もはっきりしない。「観智院本名義抄」に「女×虛 アイタレ」とあり、「新撰字鏡」では、同じ文字について「女×虛 好也 身×尤也 媔也 戯也 悦也 保志支万々 又阿佐礼和佐須」とある(注:×は左右の関係を示す)。挙例の「源氏物語」や「海人刈藻物語」などでは人物の風貌や態度をなよなよとしてなまめかしい王朝的美質としてとらえている。しかし、「天正本節用集」には「愛憜礼 アイダレ ウツケノコト」とあり、きりっとした所がないといったマイナス評価にも通じたか。

先にあげた『源氏物語』の「夕顔」の「あいだれたり」を考えた場合、少なくともこの例は「王朝的美質」をあらわしている語かどうかはっきりしないのではないだろうか。つまり、もっともひいた位置で判断すれば、「用例が少なく語義もはっきりしない」といわざるを得ないだろう。『新撰字鏡』の「阿佐礼和佐須」も「アサレワサス」あるいは「アザレワザス」というような語を書いたものであろうが、この語もはっきりとしない。こういう語もある、と思っておく必要がある。

1拍語が複合して2拍語を作り、さらに複合が行なわれて、3拍語、4拍語ができていく、というのが「筋道」だ。「アイダル」という語が和語であるならば、幾つかの和語に分解できるはずだ。そう思って、誰かが考えたのが「愛+垂る」であろう。これはしかし、漢語と和語との複合語を想定した「みかた」で、発生はあまり古くはないとみていることになる。「アイ~」という語形には「愛」をあてはめたくなるのかもしれない。

あいだちなし〔形ク〕(1)味もそっけもない。おもしろみがない。無愛想だ。*源氏物語〔1001~14頃〕蛍「にほどりにかげを並ぶる若こまはいつかあやめに引き別るべき あいだちなき御事どもなりや」*源氏物語〔1001~14頃〕夕霧「心よからずあいだちなき物に思ひ給へる、わりなしや」(2)遠慮がない。ぶしつけだ。*源氏物語〔1001~14頃〕宿木「『心にもあらぬまじらひ、いと思ひの外なるものにこそと、世を思ひ給へ乱るることなんまさりにたる』とあいだちなくぞうれへ給ふ」*増鏡〔1368~76頃〕二・新島守「頼朝うちほほゑみ、『橋本の君になにをか渡すべき』と言へば、梶原平三景時といふ武士、とりあへず、『ただそま山のくれであらばや』いとあいだちなしや」語誌 (1)中古には「源氏物語」に三例ある程度で、あまり例がない。(2)語源については、「愛立つことなし」の意かといわれる〔和訓栞・大言海〕。しかし、中古においては「愛」という漢語が仮名文で一般化していなかったと思われ、従いがたい。「あいだち」は「間立ち・間隔」の意とする説〔大日本国語辞典〕が妥当か。そうとすれば歴史的かなづかいは「あひたち」となる。(3)近世、用いられる「あいだてない」は、この語の変化した語か。

『日本国語大辞典』は見出し「あいだちなし」の「語誌」欄で、谷川士清の『和訓栞』や『大言海』がとなえる語源説に慎重に疑問を呈している。「アイ」を含んでいて語構成がはっきりしない語に「アイナシ」がある。使用例を省いて引用する。

あいなし〔形ク〕(「あいなし」か「あひなし」かは不明)(1)(するべきでないことをしたのを非難していう)あるまじきことである。けしからぬことである。不都合である。不届きである。よくない。(2)そのことが見当違いである。筋違いなことで当惑する。不当である。いわれのないことである。(3)そんなにまでしなくともよいのにしている。度を越していて、よくない。(4)そうしても仕方がないのに、している。いまさらはじまらない。むだである。無益である。(5)何をする気も起こらない。興味が持てない。(6)おもしろみがない。かわいげがない。情緒がない。(7)(連用形の副詞的用法)(イ)常軌を逸してそのことがなされるさまをいう。むやみに。やたらに。むしょうに。しきりに。(ロ)そうしても仕方がないのに。無意識のうちについ。なんとなく。語誌 (1)「あひなし」の表記もあるが、ハ行転呼音後の混用から生じたか。「い」と「ひ」の表記は語源説と関わり、「愛無し」「間(あはひ)無し」「あやなし」「合無し」「あへなし」「飽い無し」などの諸説がある。源氏物語など平安中期に多く用いられ、妥当性や道理がない、不都合だという意が基本だから、「合無し」説が単純でよいが表記に難があり、語源としては「あいなし」に少し先行する「あやなし」の音便説が有力。「あやにく」→「あいにく」、「あやまち」→「あいまち」など単母音「「あいにく」、「あやまち」→「あいまち」など単母音「あ」の直後の「や」が「い」に変化する例と同様か。(2)「あいなし」は文脈に沿って多義的であるが、それはわりきれない思い、いわく言い難い違和感を主体が動的に表出する語であったからだと思われる。しかし、平安末期以降、院政、鎌倉期にはその機能を失って「無愛(ぶあい)」(かわいげがない)といった意味になっていく。

人は「アイ」という発音を聞くとそこに「愛」がなくても「愛」を見てしまうのだろうか。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

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辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。