1914年6月、レミントン・タイプライター社は、「Remington Junior」を50ドルで発売しました。1つのキーで、大文字・小文字・数字(あるいは記号)の3種類が打てるという、いわゆる3段シフト機構を搭載した「Remington Junior」は、小型軽量タイプライターの先駆けとなりました。ユニオン・タイプライター社を吸収合併したことで、レミントン・タイプライター社は、「Monarch」や「Smith Premier」などの特許と技術を、かなり自由に使えるようになりました。それが「Remington Junior」の誕生へとつながったのです。「Remington Junior」の成功と、輸出台数の増加で、ようやくレミントン・タイプライター社は、息を吹き返しました。
1919年2月14日、オール女史は、ミルウォーキーのフォレスト・ホーム墓地で、ショールズ生誕100周年の記念式典に参加していました。この記念式典は、全国速記記者協会(National Shorthand Reporters’ Association)のウェラー(Charles Edward Weller)という人物が、レミントン・タイプライター社に持ちかけてきた話でした。ウェラーは、ショールズの古い友人で、ショールズの墓にモニュメントを立てたい、と提案してきたのです。タイプライターの父とも言うべきショールズの墓に、それを示す墓標すらないのが、ウェラーには気がかりでした。このウェラーの話に、前社長のベネディクトが一も二もなく乗ってしまったため、レミントン・タイプライター社としては、全社を挙げてサポートすることになってしまったのです。ただしそれは、レミントン・タイプライター社の宣伝にも、一役買っていました。
1920年10月、レミントン・タイプライター社は、「Remington Portable」を60ドルで発売しました。「Remington Junior」の技術を、42キー2段シフトの中型タイプライターにも導入し、さらなる軽量化を追及したのです。それは同時に、「Remington Visible Typewriter Model 10」のユーザーや、さらには「Underwood Standard Typewriter No.5」のユーザーまでも、「Remington Portable」に取り込もうとする、レミントン・タイプライター社の大胆な挑戦でした。
(メアリー・オール(14)に続く)