PISAはグローバル・スタンダードの学力を測定するテストだという。グローバル・スタンダード、つまり国際規格の学力ということだ。
そのようなことが本当に可能なのだろうか?
数学と科学なら可能なような気がする。しかし読解力では難しそうな気がする。読解力といえば言葉が勝負だ。言葉の違いは翻訳で克服できるのか? 同じ文章を読んでも、文化が違えば受け止めかたも違うのではないか。
PISAの読解力というと、日本は当初より成績がふるわない。その理由として、欧米的な発想のテストだ、日本人には向かない、日本語は特殊なんだ――というように、文化と言語の違いを強調するむきもある。
たしかにPISAの公開された問題を見るかぎり、少なくとも日本的ではない。落書きがいいか悪いかなどという下らない議論を、日本のだれがやるものか。こういう益体もないことを理詰めでやりたがるのは、いかにも欧米的である。欧米のスタンダードを「グローバル・スタンダード」というのはおかしいのではなかろうか。
この点について、私は公開の国際研究会で(1)、PISAの関係者に問いただしたことがある。問いただした相手はACER(オーストラリア教育研究センター)のメンデロビッツ研究員。ACERとは、PISAの読解力の統括を行っている機関。メンデロビッツ研究員はPISAに関わるプロジェクトの責任者である。
メンデロビッツ研究員によれば、たしかに読解力で「文化」は重大な要素であるという。だが、文化的に中立なテキストを用いると、問題として味気なくなってしまう。だからPISAの読解力では「多文化主義」を目指しているのだという。そのために、できるだけ多くの国から問題を募集しているというのだ。
それにしては欧米的な発想の問題ばかりではないか――と私は反論した。
多くの国から問題を募集しているのかもしれない。欧米以外の国も問題提出できるのかもしれない。PISAの読解力に日本文学が出題されることも夢ではないのかもしれない。しかし、OECD加盟30カ国のうち28カ国は欧米圏であり、非欧米圏は日本と韓国の2カ国だけである。多文化主義を標榜しつつも、結局は数の論理で「欧米のスタンダード」=「グローバル・スタンダード」にしているのではないか?
雰囲気が緊迫したそのとき、韓国の研究者がおもむろに手を挙げた。
「日本は成績が悪かったから、そんなことを言っているんじゃないか?」
やられた――と思った。韓国を少数派の仲間と信じて油断した。もちろん成績が悪かったから言っていたわけではないが、そう言われては立つ瀬がない。
絶句する私を尻目に、韓国の研究者は自国の取り組みについて得々として語った。「韓国の文化は欧米的なのかもしれません」などと皮肉をまじえつつ……(2)。
その国際研究会から1年ほどのち、2006年PISAの結果が発表された。
読解力で韓国は堂々の第1位。日本は第15位。PISAの読解力が欧米的であろうとなかろうと、非欧米圏の韓国は結果を出したのである。順位を競うことが目的ではないとはいえ、これまた「やられた」という感じだ。
PISAの読解力が多文化主義を目指しているのは事実である。だが、まだ「目指している」ところであって、現状は模索中といったところなのだろう。
* * *
(1)2006年8月6日 読解リテラシー国際研究会「読解リテラシーの測定、現状と課題~各国の取り組みを通じて~」於東京大学
(2)Sokutei Report Vol.4「2006年度・8月国際研究会報告書」
東京大学大学院教育学研究科 教育研究創発機構 教育測定・カリキュラム開発講座編