PISAの読解力は多文化主義をとっている。いろいろな国からいろいろな文化を反映した問題を募集して採用しているのだという。
多文化主義。いい響きだ。さまざまな文化が平等な立場で共存できるような感じ。かくして世界平和が達成される――ような気さえする。
読解力は言葉が勝負。多文化主義とくれば多言語主義といきたいところだが、そうは問屋がおろさない。いろいろな文化を反映しているのはいいが、それがいろいろな言葉で書かれていたら、いろいろな国の子どもが受ける国際テストとして成り立たないからだ。
PISAの言語に関して、「調査問題の国際標準版は英語及びフランス語で用意され」ているという(1)。英語表記とフランス語表記の問題を正文とし、それを各国語に翻訳して使うのである。多文化主義だが二言語主義なのだ。
これがどういう状況かというと、たとえば日本文学を素材として日本語で問題提案したとしよう。提案された問題は英語とフランス語に翻訳される。そして、もとが日本語であるにもかかわらず、英語とフランス語に翻訳されたものが正文になるということだ。「吾輩は猫である」は「I Am a Cat」「Je suis un chat」となって正式な姿を得るのである。
多文化主義でも二言語主義では、読解力の問題はかなり限定的なものとなる。
たとえば、私は「吾輩は猫である」について、猫ごときが「吾輩」などという大時代な一人称を使っているあたりに独特のおかしみを感じる。しかし、「I Am a Cat」と「Je suis un chat」の前では、そのような議論はハナから成り立たない。逆にいえば、そのようなところにおかしみを感じようと感じまいと関係ないところで、PISAの読解力の問題は成り立っているということである。
日本語が特殊だとか、日本語は繊細だが英語やフランス語は粗雑だと言いたいのではない。日本語独特の表現が英語やフランス語では訳しきれないように、英語やフランス語独特の表現も日本語では訳しきれないのである。特に表現が生命の文学作品には、完璧な外国語翻訳など絶対にありえないのだ。
二言語主義にはもうひとつ論点がある。英語やフランス語に翻訳できない概念や、翻訳したら意味が変わってしまうような概念を含んだ問題は、まず採用されないだろうということ。つまり、もともとの問題がどのような言語でつくられ、どのような文化を反映していようと、結局は英語の言語文化とフランス語の言語文化になじむものしか採用されない可能性が高いのである。多文化主義の夢が二言語主義によって打ち砕かれたようなものだ。
こういった問題については、水村美苗さんが著書『日本語が亡びるとき』(2)で深く掘り下げて論じておられるので、興味のある方はぜひ読んでほしい。
ちなみに、日本でPISAを実施するときは、英語とフランス語で表記された問題を日本語に翻訳しておこなう。もともとの素材文が日本語だったとしても、正文が英語とフランス語である以上、そこから翻訳しなおさなければならない。そして日本語に翻訳したものが英語とフランス語にきちんと対応しているかどうか、「国際センター」なるところで徹底的にチェックされるのだという(3)。「吾輩は猫である」は「I Am a Cat」と「Je suis un chat」となり、それをまた日本語に翻訳しなおすということだ。
さて、いったん「I」と「Je」に化けた「吾輩」は、再翻訳によって「吾輩」に戻ることが許されるのだろうか。
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(1),(3)『生きるための知識と技能3』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)・2006年調査国際結果報告書 p029/国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2007年
(2)『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗著/筑摩書房 2008年