大分県豊後高田市は,方言研究者にとっては,2つの点で“有名な”ところです。
1つめは,この連載の第73回「大分県豊後高田市の「方言まるだし弁論大会」」でも紹介しましたが,昭和58年から「大分方言まるだし弁論大会」が毎年10月に開催され,方言を活用した名物行事として地元ではすっかりお馴染みで,(途中2回の休みを挟んで)すでに31回の歩みを重ねています。
豊後高田市あたりでは,方言での強調の言い方を「モナ・モーナ」という点で特徴があります。語源は「猛な」ではないかという見方もありますが,県内でもこの地域だけで使われています。全国で刊行された方言集や方言辞典など約1000冊をまとめた『日本方言大辞典』にも,県内の代表的な方言集に収録された語を集めて整理した『大分県方言集成』にも出ていません。が,【地図】は県内での〔非常に〕に当たる言い方の分布を示したもので,これには出ています。(中央上部の平たい▲のマークです)
その豊後高田市には,昭和30年代のたたずまいを色濃く残した「昭和の町」という一画があって,観光地になっています。この「昭和の町」の中を今では非常に珍しい,昔懐かしいボンネットバスが走っています。
それにちなんで作られたお菓子に『ボンネットバスも~な・菓』(最中)があります【写真】。箱はボンネットバスを象っており,最中の皮にはそのバスが型押しされ,餡には一般的なあずき餡の他に,この地域の特産品の落花生を活かしてピーナツの入った餡もあります。ただし,先に紹介したような方言についての情報を知らないと,『も~な・菓』という名前が一体何を意味しているのか,わからないでしょう。中に「しおり」が入っており,次のように説明されています。
「もーな」は「とても」「たいそう」などを強調する豊後高田の方言です。
「もーな・菓」は,看板商品のもーなうんめぇー最中です!
つまり,豊後高田らしさを表現した「もーな(おいしいお)菓(子)」だ,というわけです。
2つめは,市内の海岸部「呉崎」地区が,方言に関して珍しい歴史をもっている点です。今から約180年前・江戸時代後期に天領・日田の代官によって大規模な干拓が行われ,ここに対岸の広島県から移住してきた大勢の人たちが「呉崎村」を構成して長年暮らしてきました。村内には小学校と高等科(のち中学校)があり,卒業後は広島方面に就職する人が多く,周囲の大分の町や村とはあまり交流せず,また代々広島との間で婚姻関係を結んできたことなどもあって,広島と太いパイプでつながれ,広島方言が根づいて脈々と伝えられてきました。いわば広島方言がカプセルに入ってこの地に降り立ち,長い間“方言の島”となってきたわけです。しかし,昭和29年に呉崎村は高田町と合併し,直後に市制施行。中学からは市内中心部の高田中学校に通学することになって周囲との交流が一気に進み,今では従来の広島方言的な特徴は高齢者にわずかに残るだけになりました。[注]
呉崎は干拓地という土地の特性=砂地を活かして,西日本では珍しい白ネギの産地として知られていますし,またスイカと落花生も特産品の一つになっています。それが先のピーナツ餡に活かされているというわけです。
[注]松田正義『方言生活の実態』(明治書院,昭和35年)p28~48,宮原かおり「大分県豊後高田市呉崎方言の変容」(平成6年)などを参照。