前回の文末の「ネ」は、今の大学生たちも小学生の当時はかなり使っていたそうだ。ときにはモダリティーまでカタカナ表記によって強めたり飾ったりしていたのだろう。しかし、中学生の頃には廃れたため、古い流行と認識されているようなのだ。継承されている世代と、断絶した世代とで、見えない(実際には見えているが)溝ができていたのである。
その一方で、文末に、相手の心情を配慮しながら意思や心境をやんわりと伝えようとする苦笑いまで表現できるように複雑化を極め、万という単位にまで細分化されたのが、日本の顔文字である。漢字が失った原初の象形性を記号など曲線によって取り戻したといえる。ユニコードの普及により、考えがたいほど気持ち悪い表情まで表現されるようになっている。
日本の笑顔(ほほえみ)と欧米の笑顔(スマイル)と並べると、角度の差に気を取られないようにすれば、ふだん顔や表情のどこで笑いを表出しているのか、笑いを読み取っているのかがうかがえるという好例を紹介してみる。
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西洋人の方が概して顔が長く、鼻が高くて目立つ。「:-)」となることが多い。これらの「目が点」であるのは、ニコちゃんマークのころから変わっていない。それよりも日本では、よく「目が笑っていないよ」と指摘するするでしょ、と補足すると、「あー」と中学生たちにも納得してもらえたようだった。日本では、口は真一文字だ。無論ちょうどいい記号がなかった、ということも背景にはあろう。横に広げられるため、「(^^)」と輪郭が描かれることもある。
人名の話題は、どこでも関心の的になる。
一二三
「ひふみ」。そう、でも「ワルツ」ちゃんが増えてきた。
三二一
「ミニー」、女子たちがそっくりなカタカナのためか、読めた。カタカナよりも漢字のほうが格が高いということによる命名なのか。さらに、「苺苺苺」で「マリナル」、そして「光宙」で「ピカチュウ」、「黄熊」で「プー」。どよめく。これらには、実在するものかどうか確認できていないものも含んでいるのだが、どこまで実話なのかはネット上の情報では確認しがたい。まだ、このような名前の人たちは、この中にはいないだろうか。
子供は可愛いものだし、キャラクターも可愛い。多様性が活力を生むと私も信じている。しかし、実名の場合には、いろいろな場面を考えてみると心配はないだろうか。これらがそれに当たるかどうかは差し措き、キラキラネームともドキュンネームとも呼ばれ、いろいろな判断を加えられることがあるそうだ。漢字としても名前としても個性があふれすぎるものを小さな子供一人に背負わせて、さまざまな人のいる社会に旅立たせていくことへの想像力が問われているようにも思われる。
顔文字も可愛いが、あくまでもその場で使う本人の問題であった。無論、こういう名前は昔からあったことは忘れてはならない。それらのお陰で、どんどん名前を覚えてもらって自分らしく生きていけるというケースもなくはなかった。何かにとって最適とは何か、答えのない問いにそれぞれで熟慮していく必要がある。