『年輩男性』キャラの恐縮した口のとがらせ方を観察して、いい気になっていた私だが、口のとがらせ方には別のやり方もある。それは、『子供』キャラに特徴的な、不満による抗議の口のとがらせ方である。えなりかずき氏がドラマの中で大人に向かって「そんなのむずかしいよー」と言う場合の口のとがらせ方、と言えばわかってもらえるだろうか。なに、音声がないとわからない? では、ここをクリックしてください。
まだMRIで観察してはいないが、「むずかしい」の部分だけをとっても、口の中は、『年輩男性』の恐縮した「いやーちょっとそれはーむずかしいすねー」の「むずかしい」とはかなり違った動きをしているのではないか。口構えとは身構え、つまり姿勢の一部である。本編でも述べたように(本編第34回)、姿勢はその人物のキャラクタを物語る。
そして、ここで重要なことは、文章で「誰々は口をとがらせた」などと表現すれば、ふつう思い浮かぶのは、『年輩男性』が口をとがらせ恐縮してしゃべる姿ではなく、むしろ不満の抗議の姿であり、しかも抗議者は『子供』には限らないということである。
もちろん、「口をとがらせる」という表現には、たとえばうなぎを「フーフー口とがらせて食べ」るだとか(織田作之助『夫婦善哉』)、「ひょっとこ」の面が「つんと口をとがらし」たトボケ顔であるだとか(芥川龍之介『ひょっとこ』)、口の先を突き出す身体動作そのものという場合も無いわけではない。
だが、多くの場合、ことばで表現されている身体動作はただの身体動作ではなく、心内の動きと結びついた心身行動である。たとえば子供が「一心不乱に口を尖らせて切りぬきをやりはじめる」という場合(宮本百合子『「保姆」の印象』)、子供のとがった口は、心内の集中状態と結びついていると言えるだろう。画家が「最後に筆を投じて、じっと画面を見つめて、それから不満そうに口を尖らし」た場合にしても(豊島与志雄『肉体』)、画家のとがった口は、まさに不満と結びついている。そういえば、うそぶく(とぼけて知らぬふりをする)顔に見えることから名付けられたとも言われる狂言面「うそぶき」は、とがった口をしている。「うそぶき」は「ひょっとこ」の原型らしいから、先に挙げた「ひょっとこ」の例も、純粋な身体動作と考えるべきではないかもしれない。
そして、「口をとがらせる」という心身行動の代表格と言えるのが、不満による抗議である。辞書を見ても、たとえば『大辞林』(第三版)には「口をとがらす」について「唇を突き出して,怒ったり口論したりする。また,不満そうな顔をする」とある。実例を挙げよう。次の(1)(2)(3)を見られたい。
(1) 「目の見えない人はカンが良いというが、あなた方には、隣室なぞに人の隠れている気配などが分りやしないかね」
「そのカンは角平あにいが一番あるが、私らはダメだね」
弁内が答えると、角平が口をとがらせて、
「オレにだって、そんな、隣りの部屋に忍んでいる人の姿が分るかい。バカバカしい」[坂口安吾『明治開化 安吾捕物』1952, 改版2008,
下線は定延による。以下も同様.]
(2) 「あんな出鱈目(でたらめ)を言ってはいけないよ。僕が顔を出されなくなるじゃないか。」そう口を尖らせて不服を言うと、佐吉さんはにこにこ笑い、
「誰も本気に聞いちゃ居ません。始めから嘘だと思って聞いて居るのですよ。話が面白ければ、きゃつら喜んで居るんです。」[太宰治『老ハイデルベルヒ』1942.]
(3) 彼の口調が、棄鉢な風で、そして不平さうに口を尖らせてゐるのを、彼女は、自分が煩さがられてゐることも気付かず、彼が遠方の自分の母に向つて反抗してゐるものと思ひ違へて――にやりとして、狐となつて彼を諫めたりするのであつた。 [牧野信一『鏡地獄』1925.]
このうち(1)は、探偵・結城新十郎の質問に対して弁内がいい加減な返答をし、「隣室の人の気配がわかるカンの鋭い人間」にされかけた角平が弁内に抗議する場面の描写である。また、(2)と(3)はそれぞれ「不服を言う」「不平さうに」と書かれているとおりで、説明は必要ないだろう。
以上で見たのは、口を実際にとがらせてしゃべると、とがらせ方によって『年輩男性』の恐縮や『子供』の抗議になるが、「誰々は口をとがらせた」とことばで表現されるのはふつう、『子供』に限らないさまざまな人物の抗議であり、両者は違っているということである。これは、私たちが「口をとがらせた物言い」について考える際、実際に口をとがらせる話し手像(発話キャラクタ)と、「口をとがらせる」ということばで表現される被表現者像(表現キャラクタ)を分けなければならないということでもある。
なお、ここで表現キャラクタについて一点、補足しておきたい。ことばとキャラクタの結びつき方にはさまざまなものがあるという文脈のもとで、私は「発話キャラクタ」と「表現キャラクタ」を導入し、両者の区別を設けた(本編第45回~第46回)。だが、「表現キャラクタ」がことばによる表現でなければ想定できないというわけではない。表現手段がことばであろうとなかろうと、表現されるキャラクタは全て「表現キャラクタ」である。なぜこんなことを言うのかといえば、マンガで描かれる「口のとがらせ方」にも、文章で描かれる「口のとがらせ方」と似たことが観察できるからである。
マンガの中で人物が口をとがらせる場合、口は数字の「3」の形のように描かれることが多いようだ。この口を仮に「3の口」と呼ぶことにしよう。藤子・F・不二雄氏の『ドラえもん』第34巻(小学館, 1985)所収の「「ワ」の字で空をいく」を例に挙げると、まず9ページでは「そうか、いくらママの声でも学校まではとどかないのか」と考えているのび太の口が3の口になっている。また、14ページではのび太が未来グッズを悪用し、激怒したドラえもんにグッズを取り上げられ、不満そうに3の口になっている。(顔の左側が描かれているので厳密には逆「3」だが。) 前者の例は集中状態の口のとがらせ方と考えることができるし、後者の例は不満による抗議の口のとがらせ方と考えることができる。