読解力の問題は素材文が命である。
素材文を選定するときは、子どもの興味や関心を第一に考えなければならない――「学習者中心」という考えが広まるにつれ、こういわれるようになった。
この風潮に眉をひそめるむきも少なくない。子どもに迎合しているというのである。今年1月に教科書に関するシンポジウムがあり(1)、そこで「最近の国語教科書は子どもに媚びていてイカン。教科書はリンとしたものでなければナラン」と声高に主張された。私も登壇者の一人だったのだが、父ほどの年齢の方々にそう説教されては返す言葉もない。
リンとするのは結構だ。だが子どもの視点を無視すべきでもない。学習者中心主義の目的は子どもに迎合することではなく、子どもの自発的な学びをうながすこと。「個人の人生にわたる根源的な学習の力」(2)を測定する、PISAの価値観もまさにここにある。いつでもどこでも自発的に学びつづける人間こそ、世界中で通用する人材ということだ。
とはいえ、子どもの自発性なんぞにまかせていたら、ますます学力低下するではないかとの反発も根強い。学力にせよ何にせよ国際規格を導入するのは難しいものだ。
話を素材文にもどそう。
子どもの興味や関心を第一に考えるといっても、PISAのような国際的な問題をつくる場合と、国内向けの問題をつくる場合では事情が異なる。国によって、文化によって、興味や関心の対象は違うからだ。
フィンランドで中学生対象の言語教材の開発をしていたときのことである。どういう素材文にしようかと相談するなかで、やたらと「馬」という単語が出てきた。「やはり馬か?」「いや、前も馬だったし……」といった具合である。フィンランドの中学生の興味や関心の対象といえば「馬」だというのだ。
うま? 不思議に思うかもしれない。実はフィンランドの若者、特に女子の理想の趣味は乗馬なのである。セレブな趣味だと思うかもしれないが、それは日本の感覚。馬といっても競走馬ではないから、値段も維持費もさほど高くはない。郊外に出れば車道のわきに馬道があって、馬に乗った老若男女がゆらゆらと行き来している。フィンランドの国語教科書に『馬の友』という雑誌を講読する女の子が登場するが(3)、これはフィンランドでは「よくある女子像」なのである。
馬をあつかったテキストは素材文としてどうか? フィンランドであれば、子どもの興味や関心にそった素材文といえる。だが、日本では、子どもの興味や関心を無視した素材文ということになるだろう。ところ変われば興味も関心も変わるのである。
PISAの参加国は2006年の時点で57カ国。それぞれの国にそれぞれ固有の興味や関心の対象がある。多文化主義を教条的に押し通すならば、固有の要素を強烈に押し出すべきだろう。だが、それでは全体として「子どもの興味や関心を第一に考えている」とはいえなくなる。結局のところ、世界中に共通する要素をあつかった、最大公約数的な内容にならざるをえない。これが国際的な読解力の問題の宿命であり、国内だけで実施する国語テストとは大きく異なる点である。
国際的に読解力を測定するという意味では、PISAはきわめて現実的である。だが「国際的」という言葉を外せば、決して理想的ではない。PISAの追求する読解力を育むのなら、PISAの現実ではなく理想を見たほうがよい。PISAの現実、PISAの枠組み、PISAの限界から一歩進めて考えるべきなのだ。
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(1)平成21年1月31日 シンポジウム「活字文化の振興における教科書の役割」於銀座フェニックスホール 主催:(財)文字・活字文化推進機構
(2)『キーコンピテンシー―国際標準の学力を目指して』ドミニク・S・ライチェン、ローラ・H・サルガニク編著/立田慶裕監訳/明石書店 2006年
(3)『フィンランド国語教科書 小学4年生』p53 メルヴィ・バレ、マルック・トッリネン、リトバ・コスキパー著/拙訳/経済界 2005年