フィンランドの教育がそれほど有名ではなかったころの話である。
私はフィンランド中西部の人口800人ほどの村にいた。「国際理解週間」ということで、村の唯一の小学校に招かれたのである。その村に外国人が来るのは10年ぶりのこと。しかも珍奇なる日本人である。てんやわんやの大騒ぎとなった。
一連の行事の途中で長大な空き時間ができた。なにごともユルユルのフィンランドではよくあることである。そこで中学年の複式学級で物語を語ることになった。語ったのは『スイミー』。小さな赤い魚のきょうだいの中で一匹だけ黒いスイミー。きょうだいをみな大きな魚に食べられてしまったスイミー。大きな魚をみんなで追いはらったスイミーの物語である。そのときは特に思惑があったわけではない。いきなり日本の昔話を語っても理解しにくいだろうと思った程度のことだ。
語り終えたとき、ひとりの男の子が手をあげた。
「スイミーは指揮官なんだね」
「なぜ?」と私が問う。子どもが何か考えを述べたとき、「なぜ?」と問うのはフィンランド教育のきまりのようなものだ。
「みんなを率いて大きな魚を追いはらったから」
「でも、あんまりいい指揮官じゃないよ」とほかの男の子が言う。
「なぜ?」
「『外に出ると楽しいよ』なんて軽薄な理由でみんなの命を危険にさらしたから」
話が思いがけない方向に進んだものである。スイミーは指揮官――それまでの私にはまったくない発想だった。
この経験をきっかけとして、私はフィンランド各地の小学校で『スイミー』を講じた(*)。すると多くの子どもたちがスイミーをリーダーとして認識したのである。物語『スイミー』から「集団にはリーダーが必要だ」という教訓を読み取ったのである。
日本でも各地の現場の協力を得て、フィンランドと同じ流れで(高学年の児童を対象に)『スイミー』をやってみた。すると日本では「協力することの大切さ」を教訓として読み取る場合がほとんどだったのである。
同じ素材文であっても、それを異なる文化的背景を持つ子どもたちが読むとき、その解釈は大きく異なるのである。
私はフィンランドの子どもたちに語った。
「日本の子どもたちは、この物語から『協力することの重要性』を読み取るんだよ」
日本の子どもたちにも語った。
「フィンランドの子どもたちは、この物語から『リーダーの必要性』を読み取るんだよ」
どちらの国の子どもたちも最初は変な顔をする。それまでの自分たちにはまったくない発想を示されたからだ。だが、きちんと説明すれば納得する。自分たちはそう考えないが、ほかの国の人たちがそう考えるのも分かるというのである。しかし、そのあと――
フィンランドの子どもたちは言った。
「たしかに協力することも大切だけど、だれのもとで協力が成り立っているのかを考えれば、やはりリーダーが大切なんだと思うよ」
日本の子どもたちも言った。
「たしかにリーダーも大切だけれど、リーダー1人だけでは何もできないのだから、やはり協力することが大切なんだと思うよ」
この一連のプロセスに異文化コミュニケーションの要諦がある。
文化が異なれば、考えかたも異なる。考えが異なるからといって、それを全否定したらコミュニケーションは成り立たない。それを全肯定しても相手に迎合しただけのことである。肝心なのは、まず相手の考えをよく理解し、その正当性を評価すること。正当性を評価したうえで、改めて自分の考えを主張することなのである。
PISAの読解力で求められているのも、まさにこの能力である。
いわゆるPISA型の読解問題を「コミュニケーション型の読解問題」ということがある。それは異文化コミュニケーションにおいて必要とされる能力が求められているからなのである。すなわち、素材文に示された考えをよく理解し、それに対する多様な解釈の正当性を客観的に評価し、そのうえで自分の主張を構成していく力――これこそがPISAの読解力で求められている能力なのだ。
* * *
(*)『スイミー』をウラル語圏共通の言語教材の素材文として提案したこともある。そのときの経緯については
⇒『三省堂 国語教育 ことばの学び』vol.17「ヨーロッパで読解教材をつくる」
(https://tb.sanseido-publ.co.jp/kokugo/Info/magazines/lang-edu/pdf/017_pdf/017_002.pdf)