PISA型読解力など存在しない――と言うとびっくりするかもしれないが、事実なのだから仕方がない。そのようなものはハナから存在しないのである。
PISAの読解力は、欧米ではありがちな「reading」の問題である。決してPISA特有のものではない。私の翻訳したフィンランドの国語教科書を見て「さすがPISA型読解力の発問ばかりだ」と感心する方々がいる。しかし、あれが欧米では普通なのだから感心するだけソンなのだ。このことは日本のPISA読解力班主査の有元秀文先生が最初からおっしゃっているのだが(1)、意外に浸透していない。
これまでにも述べてきたように、PISAの読解力は多文化主義をとることによってグローバル・スタンダードを目指している。その点で特異といえば特異である。だが、この「グローバル・スタンダード」という言葉が新たな誤解を生んだ。
私たちは「グローバル・スタンダード」というと、なんとなく高度なものを想像しがちである。PISAの読解力の問題も、形式は一般的な欧米型であるにしても、内容は高邁であるような気がしてしまう。
ところが、欧米型の「reading」の問題として見た場合、PISAの読解力は決して高度な内容ではない。おおざっぱな表現だが、欧米各国の「reading」の問題と比較すると、PISAは明らかにカンタンなのである(2)。
グローバル・スタンダードの設定が多文化主義によって最大公約数的なものにならざるをえない以上、これは当然の帰結といえる。素材文の受け止めかたが文化によって異なるのだから、あまり突っ込んだ質問はできないのだ。
もうひとつ、「グローバル・スタンダード」というと、万国共通の公平中立なものだと思うかもしれない。これも国際社会の現実からすれば大きな誤解である。
さまざまな分野に「グローバル・スタンダード」が存在するが、その設定にあたっては各国の思惑や利害が真正面からぶつかりあう。だいたいは強者の論理が強烈に反映され、それに対して弱者が異議を唱え続けるという構図になりがちである。
これはPISAにおいても例外ではない。この連載の第2回に「欧米のスタンダードを『グローバル・スタンダード』というのはおかしい」と異議を唱えた話を書いた。だが、そもそも「グローバル・スタンダード」とは、その程度のものなのである。欧米寄りの設定に異議を唱える日本もいれば、そういう設定だからこそ頑張る韓国もいるということだ。
ただ、PISAを「欧米諸国が手前勝手に実施しているテストに日本が無理に参加して、悪い点をつけられて返されている」ととらえるのも大きな誤解である。
2006年調査のOECD・PISA運営理事会の議長は日本人だし、国際調査実施の中枢機関である国際コンソーシアムには日本の国立教育政策研究所も名を連ねている(3)。日本はPISAの単なる受検国ではなく、むしろ主催国なのである。
このようにPISAに関する誤解は数多い。これらの誤解を解くことによって、かえってPISAの意義に疑問を抱いた方もいるかもしれない。
たしかにPISAの読解力は欧米型の読解問題である。しかも突っ込みの足りない問題である。だが、スタンダードが欧米寄りに設定されたという事実は、むしろ世界の現実を強烈に反映したものともいえる。突っ込みの足りない問題なのも、世界中のありとあらゆる子どもを視野に入れたテストなのだから、当然といえば当然なのである。また、一見すると突っ込みの足りない問題であっても、国内では見落とされがちな「国際的な能力」を求めている場合があるので注意を要する。これについては今後の連載の中で徐々に明らかにしていくことにしよう。
PISAの現実に失望したかもしれない。だが、PISAの現実は世界の現実なのである。
* * *
(1)たとえば『国際的な読解力を育てるための相互交流のコミュニケーションの授業改革』序文(ii) 渓水社 2006年
(2)たとえばアメリカのNAEP(全米対象の学力調査)の「reading」の問題(//nces.ed.gov/nationsreportcard/reading/)を参照されたい。
(3)『生きるための知識と技能3』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)・2006年調査国際結果報告書 p007/国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2007年