人名用漢字の新字旧字

第91回 「湿」と「溼」

筆者:
2011年7月28日
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新字の「湿」は、常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。つまり、新字の「湿」は出生届に書いてOKですが、旧字の「」はダメ。こうなってしまった原因には、俗字の「濕」の存在があるのです。

大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。陸軍では、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この二級漢字の中に、新字の「湿」が含まれていました。

漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されていました。しかし、この2528字には、新字の「湿」も旧字の「」も含まれていませんでした。その代わり、俗字の「濕」が、標準漢字表には収録されていました。国語審議会は、戦後もこの方針を貫き、昭和21年11月5日に答申した当用漢字表でも、俗字の「濕」を収録していました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、俗字の「濕」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、俗字の「濕」が収録されていたので、「濕」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。この時点で、新字の「湿」も旧字の「」も、出生届に書いてはいけない字となってしまったのです。

当用漢字字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。活字字体整理案では、俗字の「濕」を新字の「湿」に整理することが提案されていました。これを受けて、国語審議会が昭和23年6月1日に答申した当用漢字字体表では、俗字の「濕」の代わりに、新字の「湿」が収録されたのです。

昭和24年4月28日に、当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「湿」が当用漢字となり、俗字の「濕」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある俗字の「濕」と、当用漢字字体表にある新字の「湿」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、俗字の「濕」も新字の「湿」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。 しかし、旧字の「」は、相変わらず子供の名づけには使えなかったのです。

その後、常用漢字表の時代になって、新字の「湿」が常用漢字になると同時に、俗字の「濕」も人名用漢字になりました。でも旧字の「」は、常用漢字にも人名用漢字にもなれませんでした。それが現在も続いていて、「湿」と「濕」は出生届に書いてOKですが、「」はダメなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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