相変わらず「物語」という概念の定義に大きく依存する話になるが,ここでマンガ評論家・伊藤剛氏の「キャラ」についても触れておきたい。
一般には「キャラ」は「キャラクタ」の略語に過ぎないが,伊藤氏は「キャラクタ(character)」という用語を登場人物の意味で用いる一方で,それと異なる意味を持った用語「キャラ(Kyara)」を新しく鋳造されたことで知られている。この伊藤氏の「キャラ」はマンガ評論を越えてさまざまな論者に影響を与えている。(これまでの表記法と揃えて,伊藤氏の「キャラクター」を「キャラクタ」と記すことを断っておく。)
伊藤氏の「キャラ」の定義を(1)に,「キャラクタ」の定義を(2)に記す。
(1) 多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの。 [伊藤剛2005『テヅカ・イズ・デッド:ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版,p. 95.]
(2) 「キャラ」の存在感を基盤として,「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ(「読むことができ」の部分に原著者傍点),テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの [同,p. 96.]
さらに伊藤氏は「キャラ」の成立要件として「目,顔,体のある「人間のような」図像」「一人称と固有名による名指し」「コマの連続による運動の記述」の3点を挙げ(pp. 57, 88),その主たるものは宮本大人氏の言う「自立性・擬似的な実在性」(一つの物語世界にしばられないこと。読者に提示されている一つ一つの物語の背後に,そのキャラクターの住まう,より大きな物語世界があることを想起させること。p. 109)だと述べておられる(p. 111)。
定義が「多くの場合」で始まっていたり,成立要件の「主たるもの」がクローズアップされたりということもあって,私には厳密な把握はなかなか難しいが,「キャラ」の成立にとって物語からの独立が重要な鍵となっているとは言えるだろう。たとえば桃から生まれてキビダンゴを携え、イヌ・サル・キジをしたがえて鬼を退治した桃太郎は、この物語一つをなくしてしまえばもはや桃太郎ではなくなってしまうように「ひとつの物語から離れられない」キャラクタだが(p. 113),そうではなくて「独立したエピソードにまたがって登場する」ものがキャラらしい。そして,キャラがテクスト(物語)から遊離して現れることが(これをマンガの「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかく)マンガの新しい傾向とされているようである(p. 60)。
物語から遊離したキャラを受け手がそのままにしておくのか,受け手はそのキャラが生きるさまざまな新たな物語を脳内で生み出すのではないかという思い(前回)をとりあえず別にすると,伊藤氏の論から思い浮かぶのはファッションショーである。ファッションショーには,さまざまな衣装を身にまとった人物(ファッションモデル)が次から次へと登場する。そこには「直前の人物が登場の際にこう振る舞ったから,次の人物はこうなって」といった物語の展開はない。
マンガに限らず,作り手がキャラだけを重視して物語を二の次に作ったフィクション,あるいは受け手が物語に見向きもせずキャラだけを珍重するフィクションは,登場人物が次々に登場するファッションショーに近いものと言えそうだ。(続)