日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第82回 「キャラ(Kyara)」について(続)

筆者:
2015年3月29日

このところ取り上げているのは「登場人物は物語から独立できるか?」という問題だが,この問題を厳密に追求するには,まず「物語」という概念の明確な定義が必要だ(がそれが欠けている)ということも,折に触れ断ってきたとおりである(補遺第80回第81回)。さらにもう一つ注意が必要なのは,「登場人物は物語から独立できるか?」という見出しのもと,性質の異なる2つの問題が取り上げられてきたということである。ここで2つの問題を振り返っておこう。

第1の問題は「登場人物は物語を必要としないのか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が無くても構わないかという問題である(補遺第78回第80回)。この問題について私は,肯定的な立場(特に東浩紀氏)と否定的な立場(宇野常寛氏)を紹介した上で,これらの論者の視点(創作者視点)とは別の視点(鑑賞者視点)から,否定的な立場をとったことになる。(とはいえ上述したように,そもそも私の「物語」概念が先行論者たちの「物語」概念と一致している保証はないから,これまでの論の当否は今のところ論じられない。)

第2の問題は「登場人物は物語を越えて存在し得るか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が複数個でも構わないかという問題である(前回以降)。そして,前回紹介したのは,伊藤剛氏の「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」という用語の区別が,まさにこの問題意識に沿ってなされているということである。再び言えば,単一の物語から離れられないのが「キャラクタ」であり,これは一般に言う「登場人物」と同一視できる。他方,「キャラクタ」に先立って何か生命感・存在感のようなものを感じさせるもの,それだけに複数個の物語にまたがって登場するものが「キャラ」である。

たとえば『どくろ仮面』というマンガがあったとすると,連載第1回を見ても連載第37回を見ても「あっ,どくろ仮面だ」と我々が思えるのは,「キャラ」が同じだからであり,それぞれの回の「キャラクタ」(登場人物)としてのどくろ仮面は,その「キャラ」を前提にしている。或る回のあのコマを見てもこのコマを見ても「どくろ仮面だ」と我々が思えるのも,やはり「キャラ」のせいだとされている。

このような用語「キャラクタ」「キャラ」の区別がマンガを論じる上で有益なものだということを,私は否定しようとは思わない。但し,両用語を区別すること,つまり用語「キャラクタ」は登場人物を意味する語として従来どおり保持する一方で,その前提となるものとして新しく用語「キャラ」を導入することは,マンガ論を越えて多くの論者に採用もしくは援用されており,この採用・援用のプロセスについては,私は検討の必要を感じている。(さらに続く)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。