このところ取り上げているのは「登場人物は物語から独立できるか?」という問題だが,この問題を厳密に追求するには,まず「物語」という概念の明確な定義が必要だ(がそれが欠けている)ということも,折に触れ断ってきたとおりである(補遺第80回~第81回)。さらにもう一つ注意が必要なのは,「登場人物は物語から独立できるか?」という見出しのもと,性質の異なる2つの問題が取り上げられてきたということである。ここで2つの問題を振り返っておこう。
第1の問題は「登場人物は物語を必要としないのか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が無くても構わないかという問題である(補遺第78回~第80回)。この問題について私は,肯定的な立場(特に東浩紀氏)と否定的な立場(宇野常寛氏)を紹介した上で,これらの論者の視点(創作者視点)とは別の視点(鑑賞者視点)から,否定的な立場をとったことになる。(とはいえ上述したように,そもそも私の「物語」概念が先行論者たちの「物語」概念と一致している保証はないから,これまでの論の当否は今のところ論じられない。)
第2の問題は「登場人物は物語を越えて存在し得るか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が複数個でも構わないかという問題である(前回以降)。そして,前回紹介したのは,伊藤剛氏の「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」という用語の区別が,まさにこの問題意識に沿ってなされているということである。再び言えば,単一の物語から離れられないのが「キャラクタ」であり,これは一般に言う「登場人物」と同一視できる。他方,「キャラクタ」に先立って何か生命感・存在感のようなものを感じさせるもの,それだけに複数個の物語にまたがって登場するものが「キャラ」である。
たとえば『どくろ仮面』というマンガがあったとすると,連載第1回を見ても連載第37回を見ても「あっ,どくろ仮面だ」と我々が思えるのは,「キャラ」が同じだからであり,それぞれの回の「キャラクタ」(登場人物)としてのどくろ仮面は,その「キャラ」を前提にしている。或る回のあのコマを見てもこのコマを見ても「どくろ仮面だ」と我々が思えるのも,やはり「キャラ」のせいだとされている。
このような用語「キャラクタ」「キャラ」の区別がマンガを論じる上で有益なものだということを,私は否定しようとは思わない。但し,両用語を区別すること,つまり用語「キャラクタ」は登場人物を意味する語として従来どおり保持する一方で,その前提となるものとして新しく用語「キャラ」を導入することは,マンガ論を越えて多くの論者に採用もしくは援用されており,この採用・援用のプロセスについては,私は検討の必要を感じている。(さらに続く)