いよいよ「熟考と評価」である。
なぜ「いよいよ」なのかというと、“「熟考と評価」はPISAの象徴。「生徒に意見を書かせる」ことこそ「PISA型読解力」の最終ゴール”と考えられているフシがあるからだ。
現実はそれほど大げさなものではない。欧米的発想からすると、主張に対しては主張で応えるのが当然。筆者や作者は何か言いたいことがあって文章を書いたのだから、それを読んだ人も何か言って応えるべきだ――という程度の発想が根底にある。作用と反作用というか条件反射のようなものだ。
そのような発想は日本にはない。「課題文を読んだら意見を書くのは当然」などとは考えない。だからPISAの「熟考と評価」は衝撃だったのだろう。だからPISAといえば「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識が広まったのだろう。
「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識でも間違いとはいえない。だが、根本的なところにズレがあると思われるので、今回は「熟考と評価」の「意見を書く」という部分に絞って説明することにしよう。
主張に対しては主張で返すという発想の人たちにとって、意見を言うのは呼吸をするのと同じくらい自然なこと。そのこと自体に大した意味は見出さない。意見など、だれでもなんとでも言えるからである。特に教育という観点からすると、自由に意見を言うことよりも、むしろ一定の条件下で特定の意見を成り立たせることを重視する。だれでもなんとでも言えることをやらせていたら、なんの訓練にもならないからである。
そのため、読解力において求められている意見とは、決して子どもの個人的な意見ではない。課題文で扱われている問題について、子どもが心底からどう思っているのかを聞いているのではない。問われているのは、一定の条件下でどのような意見がどのように成り立ちうるか。たとえば筆者が特定の前提から何らかの結論を見出しているとしよう。そこで問われるのは、筆者と同じ前提のもとで、「筆者の結論に賛成するとしたら、どのように意見を構成すればいいですか?」。あるいは「筆者の結論に反対するとしたら、どのように意見を構成すればいいですか?」ということなのである。
PISAの『落書き問題』では「落書きは芸術だからしてもよい」「落書きは迷惑だからしてはならない」という二つの意見が併記され、「あなたはどちらに賛成しますか?」と問われた(*)。もちろん心底からどう思っているのかを聞いているのではない。「心底から」ということになると、なかなか「『落書きは芸術だ』に賛成!」とは答えにくかろう。あくまでも「仮にどちらかに賛成するとしたら」ということであって、個人の内心とは切り離して考えることが肝要なのである。
このあたり、特に「意見とは内心の発露であって、個人にとっての真実でなければならない」という信念を持っている人にとっては、大変に不真面目な活動に映ることだろう。だが、欧米的な価値観からすると、内心とは絶対的自由を確保すべきものであって、そうそう気軽に発露すべきものではない。心の中で何を考えようと、それは個人の自由。どれほどハレンチなことを考えようと絶対に自由である。だが、それをひとたび言葉や行動に表した瞬間に社会的責任が生じる。だから、内心から切り離したところで、状況に応じた言葉や行動をデザインする必要があるのだ。
PISAの読解力について「課題文を読ませて意見を書かせるテスト」という認識でも特に問題はない。だが、肝心の「意見を書く(言う)」ということについては認識に大きな隔たりがある。ここまで認識が違うと、欧米の指導法を日本に適用するのは難しい。あるいは認識を変えるべきか? PISAへの道のりはまだまだ遠いようだ。
ちなみに、「課題文を読んで意見を書くこと」は「熟考と評価」のすべてではない。「熟考と評価」の全貌については、いずれ回を改めて詳しく論じることにしたい。
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(*)『生きるための知識と技能3』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)・2006年調査国際結果報告書 pp198-201/国立教育政策研究所編/ぎょうせい 2007年