このところ2回連続して、作家の石田衣良さんとシンポジウムでご一緒する機会があった(1)。いずれも読書振興に関するシンポジウムである。みんなすっかり忘れているが、あるいはまったくご存じないが、今年は国民読書年(2)。読書活動を推進するような講演会やシンポジウムが、あちこちで(しかし細々と――なにしろ関連の基金が事業仕分けされてしまったのだ!)開かれているのである。
石田さんとのシンポジウムはエキサイティングである。読書振興が目的の会のはずなのに、「本を読んで、いったい何の役に立つんでしょうねえ」とか、「本ばかり読んでる、気持ち悪い人もいますよねえ」とか、「読み聞かせなんて、ボクは絶対にやりません」などと、実に凄まじいことを言うのである。そこに、いとうせいこうさんや私が加わって、ぐちゃぐちゃの議論というか放談を繰り広げるものだから、読書振興を目指している真面目な主催者にしてみれば、傍で見ていて気が気でなかったことだろう。
1回目のシンポジウムでは私が基調講演し、2回目のシンポジウムでは石田さんが基調講演した。私の基調講演は、例によってPISA型読解力に関するものである。ただ、最近では「PISA型読解力」という言葉はあまり使われず、「言語力」という、さらに定義の曖昧な言葉が使われるようになっている(しかし『言語力』といったほうが、『PISA型読解力』というよりも分かりやすい感じがするのだから不思議だ)。
私の基調講演のあとのシンポジウムで、なんとなく「PISA型読解力は必要だ」という感じで話が流れていた時のこと、いきなり石田さんが「そんな力、本当に必要なんですかねえ」と言い出した。
もちろん、何の理由もなく言っているのではない。
これまでにも述べてきたことであるが、PISAとは多様化・複雑化・グローバル化した世界を背景に、グローバル労働市場において人材に求められる能力を測るテストである。確かに、現代が多様性の時代であることは認めざるをえない。だが、日本人の強みは多様性の強みではなく、むしろ画一性の強みなのではないか。多様化する世界において、多様性を活かせる人材が必要なのは認めるが、別に日本人がそれに合わせる必要はないのではないか。ほかのアジアの国々のように上り調子で、これから世界で勝負しようというのなら話は分かる。だが、日本は下り調子で、しかも上り調子に転じる見込みもないのだから、無理しなくてもいいのではないか。
そういえば、石田さんの基調講演には「坂の下の湖」というタイトルが付けられていた。いま日本人は「坂の上の雲」(3)を目指すのではなく「坂の下の湖」を目指すべきなのではないか。いま必要なのは「攻め」の姿勢よりも、むしろ「守り」の姿勢。PISA型読解力は「守り」においても有効かもしれないが、その習得を目指すことで失われるものはないか? 失われるもののほうが大きいのではないか? だいたい、本を読むのに、目に見える根拠だけをチマチマ拾って、それだけを手がかりに益体もない議論をするなんて気持ち悪い――。
「なるほどねえ」と、私も受けてしまったものだから、それからはスローな読書、耽美的な読書をテーマに、ゆるやかな話が続いた。人生において下降線を辿っている人間にとって、読書が格好の「避難所」になることについて。まさに「守り」の姿勢だ。
読書振興を図るためのシンポジウムであるにもかかわらず、読書について前向きの議論にならないものだから、さすがに気が引けたのか、石田さんが最後に付け加えた。
「本を読むと、モテますよ」
本当か?
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(1) ひとつは「子どもの読書活動推進フォーラム」(4月23日・於国立オリンピック記念青少年総合センター)、もうひとつは「近畿大学国民読書年フォーラム」(5月29日・於近畿大学)。
(2) 平成20年6月6日、衆参両院において、平成22年を「国民読書年」とすることが決議された。決議の内容については、以下のサイトを参照。
//www.mojikatsuji.or.jp/link_5dokushonen2010.html
(3) 言わずと知れた司馬遼太郎の名著(文春文庫・1999など)。欧米という「一筋の雲」を目指して、日本が「坂」を一生懸命に登っていたころのお話。