三省堂国語辞典のすすめ

その89 そっけなかった? 「一目散」の語釈。

筆者:
2009年10月14日
「非常口」のピクトグラム
【急げ! 急げ! 一目散!】

『三国』(三省堂国語辞典)は語釈がそっけない」という感想をいただくことがあります。私たちは、簡潔で分かりやすい説明を心がけていますが、「簡潔」というのと、「そっけない」というのとでは、似ているようで、ニュアンスが違います。

『三国』はシンプルな似顔絵だという私の考えは、すでに書きました。写実的な肖像画よりも、簡潔な線だけで描いた似顔絵のほうが、人物の特徴を捉えることがあります。和田誠さんの描く単純な線の似顔絵などは、『三国』のイメージに近いと思います。

そうは言っても、「簡潔」というより「そっけない」語釈になってしまった場合があるのは事実で、そういうものは正さなくてはなりません。たとえば「一目散」がそうでした。

このことばは、多くは「一目散に逃げる」などという場合に使われます。「一目散に駆けつける」という使い方もあります。いずれにせよ、懸命に走る様子を表します。

バス停に走る男
【バス停向かって一目散】

でも、『三国』では初版以来、〈わきめも ふらないようす。一散。「―にかけて行く」〉と説明していました(表記は部分的に変わっています)。〈わきめも ふらない〉というだけでは、仕事や勉強の場合にも使えるかのようであり、誤解を生みかねません。例文には〈かけて行く〉とありますが、これはひとつの使用例を示すにとどまります。

いろいろな国語辞典を引き比べてみても、「一目散」の語釈に「走る」という要素を入れていないものは、(少なくとも今日の辞書には)見当たりません。「走る」という部分を抜かした『三国』の説明は、「そっけない」「不十分だった」と言わざるをえません。

ところが、ここに不思議な用例があります。『三国』の主幹だった見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)が、新聞記者から仕事場の取材を受けたときの様子を記した文章です。

〈〔記者は〕ぎっしりつまったカードを一枚一枚めくりながら、目ぼしいものを書き抜いて帰って行きました。午前から午後まで一日近くすわりこみ、わき目もふらず一目散、といった感じ。じつに熱心猛烈な仕事ぶりでした。〉(見坊豪紀『辞書と日本語』玉川大学出版部 1977 p.137-138)

パソコンの前の男
【一目散に仕事した?】

そのまま読めば、「一目散に帰った」ではなく「一目散に仕事をした」例ということになります。ひょっとして、見坊自身は「『一目散』は走る場合に限らない」という根拠を持っていたのでしょうか。その可能性は否定できませんが、今回の『三国 第六版』では、より自然な語釈になるように、〔走るときに〕という説明を補いました。

筆者プロフィール

飯間 浩明 ( いいま・ひろあき)

早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。 早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。

URL:ことばをめぐるひとりごと(//www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)

【飯間先生の新刊『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』】

編集部から

生活にぴったり寄りそう現代語辞典として定評のある『三省堂国語辞典 第六版』が発売され(※現在は第七版が発売中)、各方面のメディアで取り上げていただいております。その魅力をもっとお伝えしたい、そういう思いから、編集委員の飯間先生に「『三省堂国語辞典』のすすめ」というテーマで書いていただいております。