「『三国』(三省堂国語辞典)は語釈がそっけない」という感想をいただくことがあります。私たちは、簡潔で分かりやすい説明を心がけていますが、「簡潔」というのと、「そっけない」というのとでは、似ているようで、ニュアンスが違います。
『三国』はシンプルな似顔絵だという私の考えは、すでに書きました。写実的な肖像画よりも、簡潔な線だけで描いた似顔絵のほうが、人物の特徴を捉えることがあります。和田誠さんの描く単純な線の似顔絵などは、『三国』のイメージに近いと思います。
そうは言っても、「簡潔」というより「そっけない」語釈になってしまった場合があるのは事実で、そういうものは正さなくてはなりません。たとえば「一目散」がそうでした。
このことばは、多くは「一目散に逃げる」などという場合に使われます。「一目散に駆けつける」という使い方もあります。いずれにせよ、懸命に走る様子を表します。
でも、『三国』では初版以来、〈わきめも ふらないようす。一散。「―にかけて行く」〉と説明していました(表記は部分的に変わっています)。〈わきめも ふらない〉というだけでは、仕事や勉強の場合にも使えるかのようであり、誤解を生みかねません。例文には〈かけて行く〉とありますが、これはひとつの使用例を示すにとどまります。
いろいろな国語辞典を引き比べてみても、「一目散」の語釈に「走る」という要素を入れていないものは、(少なくとも今日の辞書には)見当たりません。「走る」という部分を抜かした『三国』の説明は、「そっけない」「不十分だった」と言わざるをえません。
ところが、ここに不思議な用例があります。『三国』の主幹だった見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)が、新聞記者から仕事場の取材を受けたときの様子を記した文章です。
〈〔記者は〕ぎっしりつまったカードを一枚一枚めくりながら、目ぼしいものを書き抜いて帰って行きました。午前から午後まで一日近くすわりこみ、わき目もふらず一目散、といった感じ。じつに熱心猛烈な仕事ぶりでした。〉(見坊豪紀『辞書と日本語』玉川大学出版部 1977 p.137-138)
そのまま読めば、「一目散に帰った」ではなく「一目散に仕事をした」例ということになります。ひょっとして、見坊自身は「『一目散』は走る場合に限らない」という根拠を持っていたのでしょうか。その可能性は否定できませんが、今回の『三国 第六版』では、より自然な語釈になるように、〔走るときに〕という説明を補いました。