ショールズとシュバルバッハとグリデンは、さらに、タイプライターのキーをボタン型にした上で、スペースキーを大型化する、という改良をおこないました。ピアノに似た鍵盤よりも、ボタン型のキーボードの方が、より多くのキーを配置することができます。また、電文を受信してタイプライターで打つ際に、最も多用されるキーは、アルファベットでも数字でもなく、スペース(空白)です。そこでショールズたちは、ボタン型キーの手前に、キーボードの端から端まであるスペースバーを配置したのです。
1870年9月、ショールズはデンスモアと共に、ハリントン(George Harrington)という人物に会うため、ニューヨークに来ていました。リンカーン政権時代の財務次官で前スイス大使のハリントンは、AP通信の創始者の一人クレイグ(Daniel Hutchins Craig)と共に、アメリカン・テレグラフ・ワークス社という電信機器製造会社を設立するところでした。ショールズとデンスモアは、ハリントンの会社でタイプライターを製造できないか、商談を持ちかけていたのです。しかし、ショールズのタイプライターは、ハリントンの会社の若い技術者エジソン(Thomas Alva Edison)に酷評されました。エジソンは、のちにこう語っています。
とても商売になるシロモノじゃなかった。とにかく、文字が行の中で全然そろってなかった。各文字ごとに1/16インチは上下していて、今にも行から逃げ出しそうな勢いだった。
そこでクレイグは、ショールズとエジソンとを競わせようと考えました。ハリントンの会社でタイプライターを製造するのではなく、ショールズとエジソンそれぞれに機械を作らせ、より良い方をハリントンの別の電信会社(オートマチック・テレグラフ社)で使おう、というのです。ショールズは、ハリントンとクレイグの要求に応じて、数多くの改良をタイプライターに施しました。一方のエジソンは、クレイグの再三の督促にもかかわらず、1年後の1871年9月までに『タイプホイール式ユニバーサル・プリンター』を完成させることができませんでした。
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この時、ショールズが施した改良の一つに、ロール紙をタイプライターで使用できるようにする、というものがありました。オートマチック・テレグラフ社で受信する電文には、しばしば非常に長いものがあり、カット紙1枚に収まるとは限りませんでした。しかし、受信中にカット紙を交換している余裕はありません。そこで、タイプライターでロール紙を使えるようにし、電文が終わった段階でロール紙を適宜切り取る、というやり方ができるよう、ショールズは改良をおこなったのです。また、ロール紙を巻いたプラテンを持ち上げることができるような改良も、ショールズは施しました。印字はロール紙の下側におこなわれるので、受信中に電文が正しく打てているかどうか即座に確認できるように、との配慮からでした。このように、電文の受信に特化した形で、タイプライターの改良はおこなわれていったのです。