これまで見てきたとおり、言語の本来の姿は音声言語であり、正書法は音声言語を文字によって記録し、保持するための規則集であるから、その基本的原則は音素表記である。しかし、音声は耳で聞くものであるのに対し、文字は目で見るものであるから、おのずと書記言語は音声言語とは別の性質を持つようになり、特に、読むときの読者の便宜をはかるという側面を強く持つことになる。
従って、正書法には音素表記の原則とは別の、また、ときにはそれに反する書記法が見られる。それらは文字の視覚的特性を生かし、目で見たときに文の構造を把握し、意味を理解するのを容易にするものである。これはドイツ語正書法の場合、同音異義語の書き分け、さまざまな変化形、派生形などにおける語幹の同一表記、また、語頭の一文字を大文字で表記する名詞の大文字書き、さらには、本来は複数の単語からなる句であったものが慣用句としてひとつの新しい語彙素として感じられるようになると形態的にも単語として表記しようとする1語書きなどがある。
同音異義語の書き分けは、語の意味は異なるが、音声的には同一の語を文字によって視覚的に異なった語として区別するものである。名詞の大文字書きは文における主要な意味の担い手である名詞を大文字表記することによって視覚的に目立たせ、その名詞をすばやく拾い出し、文の意味をおおよそ把握できるようにする。また、慣用句の1語書きは、本来は形態的に句の形をしているものを文の単位としての語として認識させることによって、文の構造が把握しやすくなり、文の意味的理解を助ける働きをしている。
反対に、語幹の同一表記は、語はさまざまに文法的な語形変化をし、また、派生形を作るが、それらは音声的にはそれぞれ異なるが、その語の意味的に同一である語幹部分を視覚的に同一表記することによって語の連関を示し、文の意味的理解を促進するものである。これは、語の意味的理解を音声の媒介を経るよりも視覚的に直接的に行う漢字に似た働きをしているものと考えられる。