大正11年(1922)にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)からベントン彫刻機を買い入れる契約をむすんだ亀井寅雄は、現地で助手をつとめていた今井直一にあとを託し、ひとあしはやく3月に日本に帰国した。あらたに彫刻機をむかえるにあたり、以前から構想していた新工場の建設計画をすすめるためだった。
三省堂は、明治36年(1906)に神田の三崎河岸に建設した表2階・裏3階の工場をもっていた。大正元年(1912)に一度は経営破綻をしたが、大正8年(1919)以降は順調に業績を回復し、発展の見込みもついてきていた。敷地150数坪の三崎河岸の工場は手ぜまになりつつあったが、土地に拡張の余地がない。このため寅雄は、かねてから〈別に敷地を得て立派な工場を作らねばならぬ運命であった〉とかんがえていた。[注1]
日本に戻った寅雄は、工場の拡張を計画した。そして数カ月遅れでアメリカから帰国した今井直一が大正11年(1922)8月に三省堂に入社すると、彼に相談しながら敷地を探し歩いた。
当時工場地帯というのが設定されていて、大東京では本所、深川一帯、並に京浜の品川から六郷川に至る線路の東側だけに限られていた。そこで専ら京浜地帯に適当な地所を物色して、遂に蒲田工場五千百坪を手に入れ、そこに新しい工場を作る基礎ができた。[注2]
蒲田工場は、東京都大田区仲六郷1-52にあった。用地買収時には荏原郡六郷村大字八幡塚字浮面耕地と呼ばれ、しょうぶ園などもある閑静な土地だった。蒲田もまだ蒲田村といわれた時代だ。
この場所をえらんだのは、省線(現在のJR線)沿線としてはもっとも海から遠く、潮風の影響がすくないこと、また、省線蒲田駅から徒歩約12、3分の距離にあり、京浜国道にちかいがすこし離れているので砂ぼこりの害を受けないということ、さらに、工場用地のすぐちかくに駅が新設されるという話があった、などの理由からだった。[注3]
そしてもうひとつ、この土地を寅雄が気に入ったおおきな理由がある。大正10~11年(1921~22)にかけて欧米視察に行ったとき、寅雄はニューヨークでおおくの印刷工場を視察していた。なかでも彼につよい印象をあたえたのが、ロングアイランドのガーデンシティにあるダブルデー・ページという会社だった。
これはすばらしく立派な自家工場を持つ出版会社で、田園都市に工場があるとは不思議に思うが、実際どう見ても工場とは思えない工場なのである。従業員はバラのアーチのつづく小路を通り、美しい噴水と、イタリヤから移植したサイプレスの並木の中の白亜の工場にかよう。広い構内で、一見不便のようではあるが、従業員の移動を防ぎ、労働運動の影響も少なく、皆生活を楽しんでいるということであった。もとよりダブルデー・ページとは環境も規模も違うことではあるが、市中のたてこんだ、いわゆる町工場とは違った工場をつくりたいものと考えていたので、都心からは約一時間の距離があるにもかかわらず(筆者注:寅雄は)この地に満足した。しかし後年あのいんしんをきわめた工業地帯になろうとは誰しも想像できなかった。[注4]
大正11年(1922)12月、暮れもおしせまった時期。ようやく、三省堂の新工場のための用地買収がおわった。
[参考文献]
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950) - 今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)
- 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
[注]