「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第18回 工場建設を目前にして

筆者:
2019年4月3日

亀井寅雄の構想にもとづき、今井直一が中心となって、東京・蒲田に三省堂新工場の建設計画がすすめられることになった。寅雄と今井は新工場に適した土地を探して歩きまわり、大正11年(1922)12月、蒲田に約5200坪の土地を入手した。用地買収をすすめる一方で、今井は新工場の設計を急いだ。

 

活版印刷・平版印刷および製本作業を含めた総合工場とし、「コ」の字型工場の中央部に主として印刷を、左右両翼に整版・製本・倉庫・発送部等を配し、いわゆる流れ作業を考えて設計をした。[注1]

 

第一期工事として計画されたのは、中央部に配置される鉄筋コンクリート造り500坪の建設だ。大正12年(1923)春、鎌倉河岸にあった木造1階48坪・2階32坪の紙倉庫の建物を買いとって蒲田にはこび、工場建築事務所にすべく、工場用地の南側隅に移築した。用地には、六郷川の改修工事で出た捨て土をもらって土盛りをし、整地をほどこした。地質検査もおわり、工事の手順はととのった。

 

大正12年(1923)8月31日、三省堂は清水組をはじめ、東京有数の建築業者を現場にまねいて、工場の設計図をわたした。あとは9月9日の入札を待つばかりだった。ところが翌9月1日午前11時58分、関東地方は巨大な地震にみまわれた。10万棟を超える家屋を一瞬のうちに倒潰させた「関東大震災」である。

関東大震災直後の神田駿河台下交差点付近の様子(1923年9月6日)

関東大震災直後の神田駿河台下交差点付近の様子(1923年9月6日)

当時大手町にあった三省堂本社も、神田三崎河岸の工場も全焼した。本社は、前年の大正11年(1922)11月、東京瓦斯電気株式会社事務所跡の3階建ての建物に移転したばかりだった。三崎河岸工場の機械も設備もぜんぶ焼け、わずかに辞書の版下を持ち出せただけだった。三省堂書店も全焼した。ただ、蒲田の工場建築事務所だけは、無事であった。

 

寅雄の「理想の工場をつくる計画」は、大震災の発生によって、すぐさま「復興をめざす計画」にすがたを変えた。本社を東京・小石川にある亀井忠一(当時、三省堂顧問)宅に置き、工場の一部機能は社長の神保周蔵宅に置かれた。蒲田の工場建築事務所になるはずだった古い建物には、印刷機がすえつけられた。そうしていちはやく仮工場で教科書の製造に着手し、翌春の教科書の供給をまにあわせた。このことは、三省堂の信頼をおおきく高めることとなった。工場復興の舞台裏については、のちにくわしくふれたい。

 

というのも、関東大震災のとき、三省堂にとってもうひとつの大事件が起きていたのだ。

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 今井直一「蒲田工場の建設」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.11

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。