亀井寅雄の構想にもとづき、今井直一が中心となって、東京・蒲田に三省堂新工場の建設計画がすすめられることになった。寅雄と今井は新工場に適した土地を探して歩きまわり、大正11年(1922)12月、蒲田に約5200坪の土地を入手した。用地買収をすすめる一方で、今井は新工場の設計を急いだ。
活版印刷・平版印刷および製本作業を含めた総合工場とし、「コ」の字型工場の中央部に主として印刷を、左右両翼に整版・製本・倉庫・発送部等を配し、いわゆる流れ作業を考えて設計をした。[注1]
第一期工事として計画されたのは、中央部に配置される鉄筋コンクリート造り500坪の建設だ。大正12年(1923)春、鎌倉河岸にあった木造1階48坪・2階32坪の紙倉庫の建物を買いとって蒲田にはこび、工場建築事務所にすべく、工場用地の南側隅に移築した。用地には、六郷川の改修工事で出た捨て土をもらって土盛りをし、整地をほどこした。地質検査もおわり、工事の手順はととのった。
大正12年(1923)8月31日、三省堂は清水組をはじめ、東京有数の建築業者を現場にまねいて、工場の設計図をわたした。あとは9月9日の入札を待つばかりだった。ところが翌9月1日午前11時58分、関東地方は巨大な地震にみまわれた。10万棟を超える家屋を一瞬のうちに倒潰させた「関東大震災」である。
当時大手町にあった三省堂本社も、神田三崎河岸の工場も全焼した。本社は、前年の大正11年(1922)11月、東京瓦斯電気株式会社事務所跡の3階建ての建物に移転したばかりだった。三崎河岸工場の機械も設備もぜんぶ焼け、わずかに辞書の版下を持ち出せただけだった。三省堂書店も全焼した。ただ、蒲田の工場建築事務所だけは、無事であった。
寅雄の「理想の工場をつくる計画」は、大震災の発生によって、すぐさま「復興をめざす計画」にすがたを変えた。本社を東京・小石川にある亀井忠一(当時、三省堂顧問)宅に置き、工場の一部機能は社長の神保周蔵宅に置かれた。蒲田の工場建築事務所になるはずだった古い建物には、印刷機がすえつけられた。そうしていちはやく仮工場で教科書の製造に着手し、翌春の教科書の供給をまにあわせた。このことは、三省堂の信頼をおおきく高めることとなった。工場復興の舞台裏については、のちにくわしくふれたい。
というのも、関東大震災のとき、三省堂にとってもうひとつの大事件が起きていたのだ。
※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より
[参考文献]
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950) - 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
[注]