「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第19回 ベントン彫刻機のゆくえ

筆者:
2019年4月17日

ATFとベントン彫刻機の購入契約をむすんだことは、亀井寅雄独自の決断によるものだった。三省堂社内で当時、寅雄の身近で技術的な助言をなしえたのは工場長の佐分利鉄郎と製版課長の中村大橘だったが、彼らにはいずれも母型彫刻の知識がなかった。

 

のちに今井直一はベントン彫刻機の導入について、こんなふうに語っている。

 

当時の状況から考えて、出版会社の附属工場がこんな遠大な計画をたて、多額の費用を投じて設備をしたということはまさに大英断であった。

かくて社長(筆者注:亀井寅雄)がよくこの間の機微に通じ、将来を洞察して母型改良の大事業を断行したことは、まことに三省堂に新生命を与えたもので、わが社の活版技術はこの大盤石の礎の上に築き上げられたのである。

今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955)[注1]

 

三省堂は、三井物産を通じてベントン彫刻機を購入した。同社のニューヨーク支店で印刷関係を担当していたのは北本佐一郎であり、〈彫刻機買い入れについて同氏の尽力に負うところが少なくなかった〉。[注2]

 

ATFとの契約を終えて、寅雄が日本に帰国したのは大正11年(1922)3月のことだ。そして大正12年(1923)になり、ATFから三省堂に通知がとどいた。

「ベントン彫刻機を日本におくりだした」

待ちに待った連絡だった。

 

ところが、である。機械の到着を待つあいだに、それが起こった。

大正12年(1923)9月1日(土)午前11時58分、関東大震災発生。

 

マグニチュードは7.9。10万以上の家屋が倒潰し、死者・行方不明者10万人以上という、巨大な地震だった。地震によって大規模火災も引き起こされた。この大規模火災で、大手町の三省堂本社、神田三崎河岸の工場、そして神保町の三省堂書店は一夜にしてすべて焼失した。ベントン彫刻機の輸入を仲介した三井物産も焼けてしまった。

関東大震災直後の神田駿河台下交差点付近の様子(1923年9月6日)

関東大震災で焼ける前の三省堂書店。大正8年(1919)ごろ

しばらくは三井物産と連絡がとれず、三省堂のたいせつなベントン彫刻機がどういう状態になっているのか、わからなかった。いったいどこに行ったのか……。今井が調べていくうち、横浜の保税倉庫[注3]のなかにあることがわかった。

 

今井は横浜にかよい、たくさんの倉庫のなかを探し歩いた。何日もかよったすえにようやく、貨物のなかからベントン彫刻機を発見した。

 

彫刻機の所在がわかるまで手間どったうえに、関東大震災によって、彫刻機を設置する予定だった蒲田工場の建設も遅れた。大正13年(1924)9月、関東大震災から1年後に、蒲田工場は操業を開始。ベントン彫刻機の荷ほどきをして組み立てることができたのは、大正14年(1925)春ごろのことだった。
(つづく)

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.25
  2. 同上
  3. 保税倉庫:輸入手続きを終えていない海外からの貨物を入れておく倉庫のこと

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)
  • 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。