ATFとベントン彫刻機の購入契約をむすんだことは、亀井寅雄独自の決断によるものだった。三省堂社内で当時、寅雄の身近で技術的な助言をなしえたのは工場長の佐分利鉄郎と製版課長の中村大橘だったが、彼らにはいずれも母型彫刻の知識がなかった。
のちに今井直一はベントン彫刻機の導入について、こんなふうに語っている。
当時の状況から考えて、出版会社の附属工場がこんな遠大な計画をたて、多額の費用を投じて設備をしたということはまさに大英断であった。
かくて社長(筆者注:亀井寅雄)がよくこの間の機微に通じ、将来を洞察して母型改良の大事業を断行したことは、まことに三省堂に新生命を与えたもので、わが社の活版技術はこの大盤石の礎の上に築き上げられたのである。
今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955)[注1]
三省堂は、三井物産を通じてベントン彫刻機を購入した。同社のニューヨーク支店で印刷関係を担当していたのは北本佐一郎であり、〈彫刻機買い入れについて同氏の尽力に負うところが少なくなかった〉。[注2]
ATFとの契約を終えて、寅雄が日本に帰国したのは大正11年(1922)3月のことだ。そして大正12年(1923)になり、ATFから三省堂に通知がとどいた。
「ベントン彫刻機を日本におくりだした」
待ちに待った連絡だった。
ところが、である。機械の到着を待つあいだに、それが起こった。
大正12年(1923)9月1日(土)午前11時58分、関東大震災発生。
マグニチュードは7.9。10万以上の家屋が倒潰し、死者・行方不明者10万人以上という、巨大な地震だった。地震によって大規模火災も引き起こされた。この大規模火災で、大手町の三省堂本社、神田三崎河岸の工場、そして神保町の三省堂書店は一夜にしてすべて焼失した。ベントン彫刻機の輸入を仲介した三井物産も焼けてしまった。
しばらくは三井物産と連絡がとれず、三省堂のたいせつなベントン彫刻機がどういう状態になっているのか、わからなかった。いったいどこに行ったのか……。今井が調べていくうち、横浜の保税倉庫[注3]のなかにあることがわかった。
今井は横浜にかよい、たくさんの倉庫のなかを探し歩いた。何日もかよったすえにようやく、貨物のなかからベントン彫刻機を発見した。
彫刻機の所在がわかるまで手間どったうえに、関東大震災によって、彫刻機を設置する予定だった蒲田工場の建設も遅れた。大正13年(1924)9月、関東大震災から1年後に、蒲田工場は操業を開始。ベントン彫刻機の荷ほどきをして組み立てることができたのは、大正14年(1925)春ごろのことだった。
(つづく)
※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より
[参考文献]
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950) - 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
- 橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)
- 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)
[注]