「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第20回 もうひとつの重要な機械

筆者:
2019年5月1日

関東大震災でゆくえ知れずになったベントン彫刻機を横浜の保税倉庫で見つけ、ようやく手に入れた三省堂。しかし震災の被害から機械を設置する蒲田工場の建設が遅れ、工場の操業は大正13年(1924)9月、ベントン彫刻機の荷ほどきができたのは大正14年(1925)春ごろのことだった。

関東大震災直後の神田駿河台下交差点付近の様子(1923年9月6日)

大正13年(1924)秋ごろ、蒲田工場前での記念写真(三省堂所蔵)。裏面に「右側二階建を含む建物は第一印刷課 左側は製版課建物」とメモ書きあり。

そしてじつは、三省堂の亀井寅雄がATFから入手したのは、ベントン彫刻機だけではなかった。寅雄はこう書きのこしている。

 

ベントン氏に会見した際、母型彫刻機を見せて貰った。その部屋はハッキリした記憶はないが、幅七間、長さ二十間くらいの部屋に彫刻機械が八、九台並んでいた。一番端の方に一台別な機械があった。説明をきくと、フィッチングマシンというもので、この機械は、ATF会社のベントン彫刻機は世界に知られているが、フィッチングマシンは専門家にも知られていない。私はその機械も一緒に作ってくれと頼んだ。

亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(三省堂、1955)[注1]

 

フィッチングマシンとは、仕上機のこと。彫刻機10台に対し1台あればまにあう機械で、リン・ボイド・ベントンには〈日本の印刷局にもこの機械は譲らなかったのだから、あなたもいらぬでしょう〉[注2]と言われたが、寅雄はむりに頼みこんで、この機械もあわせてつくってもらう約束をとりつけた。

 

印刷局の技師がこの機械に気がつかず、素人の私が気のついたとういことは、天祐神助のような気がする。こういう特殊な仕上機械があるということを日本では全然知らない。しかしこの機械がなければ、真に優秀なる字母というものはできない。

亀井寅雄「三省堂の印刷工場」(三省堂、1955)[注3]

 

この仕上機とは、どういう機械だったのだろうか。昭和12年(1937)に東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)印刷工芸科を卒業して三省堂に入社し、技師として活版製版を担当するかたわら母型の研究に力をそそいだ細谷敏治(ほそや・としはる/1913-2016)の遺したノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)に、こんな説明が書かれている。

 

しかし、筆者が株式会社三省堂に勤務していた時分つまり昭和初期に当たる頃には、ベントン母型彫刻機の附属機械として、母型の全体の寸法とか、寄り引き、上り下りを修正するための専用の母型仕上げ機が、ベントン室に設置してあった。それは母型を仕上げるため寸法を測定する移動式顕微鏡マイクロメーターが測定用に取り付けてある専用機であって誠に便利な母型の仕上機であった。この機械は三省堂特有の日本唯一の設備であった。これは三省堂の社長がアメリカのアメリカン・タイプファウンダリー(ママ/筆者注:アメリカン・タイプ・ファウンダース=ATF)を訪問した折に懇望して特別に譲渡(買受けたのではなく)を受けたものと筆者は閃聞している。先方では日本人は直ぐ真似をして同じような機械を造って商売をするから、と言う理由で一応は固く断られたのだそうである。従って、この母型仕上機は日本には一台きり無かったのである。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)より

 

寄り引きとは、母型のなかで文字がどの位置に調整されているかということを指す。上下左右の位置にばらつきがあると、その母型で鋳造した活字では、文字がそろわず、きれいに組むことができない。活字鋳造の際にも文字の寄り引き、位置がそろっているかどうかは留意されるが、まず母型の段階でそろえるための機械だった。

 

印刷局の専門家が気がつかなかった母型仕上機の存在に寅雄は気づき、輸入した。このことがもしかしたら、ベントン彫刻機を使いこなすうえで、三省堂と他社とのおおきなちがいのひとつとなったのかもしれない。日本の印刷局でベントン彫刻機を見つけたときと同様、ATFをたずねたときにも、寅雄は得意の嗅覚を発揮したのだった。
(つづく)

 

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.6
  2. 同上
  3. 同上

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」(いずれも、執筆は1950)
  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 細谷敏治「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。