「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第21回 関東大震災の大打撃

筆者:
2019年5月15日

関東大震災の起きた大正12年(1923)9月1日は、土曜日だった。三省堂顧問の亀井忠一、社長の神保周蔵、専務・亀井寅雄、常務・亀井豊治、監査・斎藤精輔は、塩原温泉に避暑に出かけていた。

 

この前年12月に総務部長として三省堂に入社した、寅雄の中学以来の友人・永井茂弥が、関東大震災当日の日記をのこしている。永井はこの日の午前中、明治商業銀行の阿良木与十郎と一緒に、本所の永島巌公証人役場で先につくった公正証書の訂正の手続きをすませ、蒲田工場建設用に40万円を借り入れる約束をとりかわし終えたところだった(当初は40万円の約束だったが、震災のため10万円減額となり、実際には30万円となった)。

関東大震災当時の総務部長・永井茂弥

関東大震災当時の総務部長・永井茂弥

本所から三省堂本社のある大手町まで電車で帰ろうとした途中で、永井は地震にあった。一度止まった電車はふたたび走りだしたが、永井は飛びおりた。まもなく第二の震動がきて、永井の乗っていた電車は、折れた橋から川のなかに墜落してしまった。永井はいちもくさんに電車道を日本橋方面にかけだした。

 

大手町はどうしたか。恐らく会社もつぶれてけが人も相当できたのではないかと思って東京駅のガードまで来ると吃然と瓦斯電の建物(筆者注:三省堂本社が入っていた建物)は立っており社員が大勢南側に集まっている。一二時半ごろだろうか、地震の鎮まるのを待機しているのだ。会社の北側の内務省の文庫は倒れ衛生会館は半裸体となってその煉瓦の下に馬が二頭つぶされて死んでいる。印刷局は崩れて女工が二、三〇〇人死んだというし、内外ビルディングは四階が落ちて多数の人が圧死した噂だ。丸ビルでも死傷一〇〇〇人あまりとか、偽か真か、情報しきりに伝わる。(中略)

永井茂弥の日記より[注1]

 

小売部(支配人川野秀松君)から注進が来て焼けたので全員レジスターを抱えて不忍池方面へ退避したとのこと、三崎河岸の工場(主任佐分利鉄太郎君)が心配だと神谷芳次郎君が五、六人の小僧さんを連れて出掛けたが、後で聴けば工場も三時過ぎには焼けて編集の志馬沢二郎君など蓆を被って河の中に何時間も潜っていたとの事であった。全市(筆者注:東京市=現・東京都)は全く火に包まれて焼くに任せるより仕方なかったようだが、大手町は幸に安全であったので社員の自宅も心配だろうから明日ここに集まることにして数人を残して社員に退去してもらった。(中略)

永井茂弥の日記より[注1]

 

一度、牛込加賀町の自宅の様子を見に帰った永井は、その無事をたしかめると、大手町にもどった。会社につくと、社長・神保周蔵、専務・亀井寅雄が塩原からもどっていた。

 

どうやら本社は助かるかもしれぬと大蔵省の火を対岸の火災視していると八時半ごろ急に風の方向が変わって内務省の火は衛生会館の方へ吹きかけた。河西君の音頭で、斎藤(筆者注:斎藤雄吉)、加藤(筆者注:加藤昿之輔)君ら勇敢に働いて倉庫から本を取り出したが、火は本社の屋根にかかってきたので一同あきらめて倉庫の外へ引き上げた書類や商品を自動車に積んで和田倉門の所へ逃げた。本社の三階から火が吹きはじめ特許局の方まで焼け朝鮮銀行からガードの方へ延びていった。専務がお蔵に火が付(ママ)いたので万事休すと絶叫する間に、本社は見る見るうちに焼け落ちた。時正に九時二〇分。

永井茂弥の日記より[注1]

 

翌朝、永井が大手町の焼け跡に行くと、金庫は運良く街路に落ちており損傷がなかった。本金庫1個もたおれたが、他の2個からは煙を吹いていた。商品である本たちは、山のままでさかんに燃えていた。のこったのは、この一山の灰だけだった。

 

関東大震災1週間後の神田駿河台付近の様子(1923年9月8日)

関東大震災1週間後の神田駿河台付近の様子(1923年9月8日)

 

三省堂は、小石川区(現・文京区)戸崎町の亀井忠一宅に応急事務所をつくることとし、社員と荷物は自動車ではこんだ。一度でははこびきれず、一往復2時間かかる道のりを何往復かくりかえした。のこった焼け跡には〈三省堂は小石川区戸崎町三亀井方に移す。〉という札を玄関の柱にかかげた。

 

三崎河岸の工場は一時閉鎖となった。蒲田工場の工事請負人からは、工場は無事との報告が入った。ただし、工場といってもこのときの蒲田工場は、建築事務所にしようと移築した古建物のみだった。

 

三省堂は亀井忠一宅に設けられた応急事務所を拠点に、すぐさま再建にのりだした。
(つづく)

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 『三省堂の百年』(三省堂、1982)掲載の永井茂弥の日記より。P.108-109

[参考文献]

  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。