1872年8月10日、サイエンティフィック・アメリカン誌は、ショールズのタイプライターを1面で取り上げました。ハリントンへの納入も兼ねて、デンスモアが、ニューヨークのウォール街の近くにショールームを開いており、そこをサイエンティフィック・アメリカン誌が取材したようでした。ただ、この記事は、このタイプライターがショールズ一人の発明品であるかのように書いてありました。憤慨したのはグリデンです。グリデンは早速、抗議の手紙をサイエンティフィック・アメリカン誌に送りつけ、3週間後の1872年8月31日号には、その手紙が掲載されました。その後、ショールズは事あるごとに、グリデンを共同発明者として紹介するよう努めたのです。
1872年12月、デンスモアがヨスト(George Washington Newton Yost)という人物を、ミルウォーキーに連れてきました。運河ぞいに開設した工房で、ショールズのタイプライターを吟味してもらうためでした。タイプライターを大量生産できれば、1台1台の値段は下がり、もっと多くのタイプライターを普及させることができるはずです。しかし、ショールズにはもちろん大量生産の技術は無く、その技術を持った会社をヨストに紹介してもらおう、との算段だったのです。
1873年2月、ショールズは、公共事業委員会の幹事の一人として、東部の各都市を視察して回っていました。実は、ヨストとデンスモアが、タイプライター製造会社を求めてニューヨーク州イリオンに向かっており、ショールズも彼らと合流したかったのですが、職務上それは叶わなかったのです。3月1日には、デンスモアがE・レミントン&サンズ社と、タイプライターの製造契約を結んだのですが、ショールズはその場に居あわせることができませんでした。さらにショールズは、州知事のウォッシュバーン(Cadwallader Colden Washburn)に、ウィーン万博への出張を命じられます。ウィーン万博は5月から半年間の予定でした。結局ショールズは、ウィーン万博には行きませんでした。そして、公共事業委員会の幹事職も辞職したのです。
1873年6月11日、ショールズは、ニューヨーク州イリオンにいました。E・レミントン&サンズ社の社長レミントン(Philo Remington)と会うためです。ショールズの見たイリオンは、銃とミシンの生産で繁栄を極める企業城下町でした。そこでショールズは、新たなタイプライターのブランド名を、レミントンと共に決定しました。「Sholes & Glidden Type-Writer」それがショールズの決めたブランド名でした。