タイプライターに魅せられた男たち・第6回

クリストファー・レイサム・ショールズ(6)

筆者:
2011年9月29日
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サイエンティフィック・アメリカン誌1872年8月10日号

1872年8月10日、サイエンティフィック・アメリカン誌は、ショールズのタイプライターを1面で取り上げました。ハリントンへの納入も兼ねて、デンスモアが、ニューヨークのウォール街の近くにショールームを開いており、そこをサイエンティフィック・アメリカン誌が取材したようでした。ただ、この記事は、このタイプライターがショールズ一人の発明品であるかのように書いてありました。憤慨したのはグリデンです。グリデンは早速、抗議の手紙をサイエンティフィック・アメリカン誌に送りつけ、3週間後の1872年8月31日号には、その手紙が掲載されました。その後、ショールズは事あるごとに、グリデンを共同発明者として紹介するよう努めたのです。

1872年12月、デンスモアがヨスト(George Washington Newton Yost)という人物を、ミルウォーキーに連れてきました。運河ぞいに開設した工房で、ショールズのタイプライターを吟味してもらうためでした。タイプライターを大量生産できれば、1台1台の値段は下がり、もっと多くのタイプライターを普及させることができるはずです。しかし、ショールズにはもちろん大量生産の技術は無く、その技術を持った会社をヨストに紹介してもらおう、との算段だったのです。

1873年2月、ショールズは、公共事業委員会の幹事の一人として、東部の各都市を視察して回っていました。実は、ヨストとデンスモアが、タイプライター製造会社を求めてニューヨーク州イリオンに向かっており、ショールズも彼らと合流したかったのですが、職務上それは叶わなかったのです。3月1日には、デンスモアがE・レミントン&サンズ社と、タイプライターの製造契約を結んだのですが、ショールズはその場に居あわせることができませんでした。さらにショールズは、州知事のウォッシュバーン(Cadwallader Colden Washburn)に、ウィーン万博への出張を命じられます。ウィーン万博は5月から半年間の予定でした。結局ショールズは、ウィーン万博には行きませんでした。そして、公共事業委員会の幹事職も辞職したのです。

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「Sholes & Glidden Type-Writer」誕生を伝えるショールズの記事(Milwaukee Daily Sentinel, 1873年6月14日)

1873年6月11日、ショールズは、ニューヨーク州イリオンにいました。E・レミントン&サンズ社の社長レミントン(Philo Remington)と会うためです。ショールズの見たイリオンは、銃とミシンの生産で繁栄を極める企業城下町でした。そこでショールズは、新たなタイプライターのブランド名を、レミントンと共に決定しました。「Sholes & Glidden Type-Writer」それがショールズの決めたブランド名でした。

(クリストファー・レイサム・ショールズ(7)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。