1909年6月2日、山下は染井墓地にいました。長谷川の葬儀に参列するためでした。200人を越える人々が信照庵に集まるなか、遺骨と遺族とを載せた馬車が染井墓地に到着、根津神社の宮西惟助が祭主を務め、長谷川の葬儀が取りおこなわれました。大田黒重五郎、池辺三山、島村抱月、小林愛雄、井田孝平、池田良栄らが順に弔辞を読み上げ、遺族らが玉串を捧げて、葬儀はとどこおりなく終わりました。
山下は、坪内らの誘いで、長谷川の追悼文集に、一文を寄せることにしました。山下が書いた「失敗したる経世家としての長谷川君」という約4000字の文章は、二葉亭四迷が文士を目指していたのかどうかについて、根本的な疑問を投げかけるものでした。
文士のことについて思い出すのは、氏がまだ官報局に居た時分、例の有名な『浮雲』を出しました。これは実に氏の処女作で、世間は非常な好評を以って迎え、二葉亭四迷の名はこの時分から世人の注意を惹いたのでありますが、氏はむしろその何故なるかを怪しんだ程です。同僚は傍から更に盛んに書き給え、旗を揚げるのはこの時だと煽てても、氏はすこぶる不満の態で、僕は実に世間の程度の低いのに驚く、僕はもう筆を執るまいと、全く吾々の予想外のことを云って居ました。さすれば小説『浮雲』は氏にとって、まだ不満の策であったかも知れません。
住友神戸支店の支配人としてでもなく、二葉亭四迷のファンとしてでもなく、あくまで長谷川の同窓の一人として、山下はこの文章を寄稿したのです。長谷川の追悼文集は、この年の8月に出版されたのですが、しかしというか、やはりというか、『二葉亭四迷』というタイトルでした。
そんな中、日本を揺るがす大事件が起こりました。伊藤博文が暗殺されたのです。1909年10月26日の朝9時、哈爾賓(ハルビン)駅で狙撃され、そのまま絶命したとの一報でした。当日の朝日新聞号外は、以下のように伝えています。
●伊藤公狙撃さる
伊藤公が二十六日哈爾賓停車場に着し、列車を降らんとする際、韓人と覚しきもの公を狙撃せりと、在ハルビン川上総領事より電報ありたり。なお随行者田中満鉄理事も軽傷を受けたりと。
さらに「兇行者は朝鮮人」という見出しが、新聞紙面を駆け巡りました。10月28日の朝日新聞を見てみましょう。
犯人は年齢二十四五、氏名未詳、釜山の住人にあらざるも同地を発し、浦潮(ウラジオストック)を経て、廿五日哈爾賓に入り、同夜は停車場附近にて旅宿し、廿六日朝、出迎え日本人の間に紛れ込みたるもの。その兇行の趣意は、韓国は伊藤公の為に名誉を汚されたれば、之を回復したるのみ、但し己一人の発意にて他に同類なし、と陳述し居るも、その筋にては、この自白に信をおかず。
伊藤の葬儀は、国葬とすることが決まりました。国葬の場所は日比谷公園、日取りは11月4日となりました。
(山下芳太郎(20)に続く)