タイプライターに魅せられた男たち・第165回

山下芳太郎(20)

筆者:
2015年1月22日

1909年11月4日、山下は日比谷公園にいました。日比谷公園は、伊藤の国葬に参列する人々で、ごった返していました。この日、日比谷公園内に入れるのは、伊藤の親族や各国からの弔問客、国会議員や政府関係者などでした。山下は政府関係者の一人として、日比谷公園内での会葬を許されたのです。一般の民衆は、霊南坂の伊藤の官邸から日比谷公園の入口まで、沿道を埋め尽くしていました。

霞ヶ関附近を通過する伊藤博文の霊柩(1909年11月4日、小川一眞撮影)

霞ヶ関附近を通過する伊藤博文の霊柩(1909年11月4日、小川一眞撮影)

伊藤の霊柩は、午前9時に官邸を出発し、弔砲の鳴り響く中を約1時間かけて、虎ノ門から霞ヶ関を通り、日比谷公園に到着する手はずになっていました。「故枢密院議長従一位大勲位公爵伊藤公之柩」の銘旗に先導されて、予定通り午前10時、日比谷公園に到着した霊柩は、左右にずらっと並んだ会葬者たちの最敬礼を受けつつ、公園内に設置された祭場へと進んでいきました。

各国からの弔問客、皇族、そして遺族が、順々に玉串を捧げていく間、山下は、不思議な違和感を覚えていました。これは、誰のための葬儀なのか。伊藤が異国の地で凶弾に斃れた、それはもちろん、とても悲しいことですし、死んだ伊藤のためにも、ちゃんとした葬儀をおこなうべきでしょう。日比谷公園内に2000人を超える人々が集まっているのも、あるいは、その何百倍もの人々が沿道を埋め尽くしているのも、みな伊藤の死を悼んでいるのでしょう。ただ、伊藤の葬儀は、つい半年前やはり異国の地で亡くなった長谷川の葬儀に比べて、何もかもが違っていて、山下には、どうしても違和感がぬぐえなかったのです。これは、葬儀の名を借りた凱旋なのではないか、あの統監道での「伊藤統監万歳」が、2年の時を経て、日比谷公園での最敬礼へと変化しただけではないのか。

正午過ぎに伊藤の葬儀は終了し、霊柩は馬車に移され、日比谷公園から、墓所となる大井町谷垂へと、去っていきました。墓所までの沿道も、「伊藤統監万歳」の歓声こそ無いものの、ずっと人々が埋め尽くしていることでしょう。また、谷垂の墓所には、伊藤の銅像建設が計画されている、とのことでした。ただ、伊藤の銅像は、過去(1904年)に神戸の湊川神社に建てられたものが、民衆の暴動で引き倒されてしまった経緯もあるので、谷垂の墓所の銅像も、この時点では未決定とのことでした。

山下芳太郎(21)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。