1909年11月4日、山下は日比谷公園にいました。日比谷公園は、伊藤の国葬に参列する人々で、ごった返していました。この日、日比谷公園内に入れるのは、伊藤の親族や各国からの弔問客、国会議員や政府関係者などでした。山下は政府関係者の一人として、日比谷公園内での会葬を許されたのです。一般の民衆は、霊南坂の伊藤の官邸から日比谷公園の入口まで、沿道を埋め尽くしていました。
伊藤の霊柩は、午前9時に官邸を出発し、弔砲の鳴り響く中を約1時間かけて、虎ノ門から霞ヶ関を通り、日比谷公園に到着する手はずになっていました。「故枢密院議長従一位大勲位公爵伊藤公之柩」の銘旗に先導されて、予定通り午前10時、日比谷公園に到着した霊柩は、左右にずらっと並んだ会葬者たちの最敬礼を受けつつ、公園内に設置された祭場へと進んでいきました。
各国からの弔問客、皇族、そして遺族が、順々に玉串を捧げていく間、山下は、不思議な違和感を覚えていました。これは、誰のための葬儀なのか。伊藤が異国の地で凶弾に斃れた、それはもちろん、とても悲しいことですし、死んだ伊藤のためにも、ちゃんとした葬儀をおこなうべきでしょう。日比谷公園内に2000人を超える人々が集まっているのも、あるいは、その何百倍もの人々が沿道を埋め尽くしているのも、みな伊藤の死を悼んでいるのでしょう。ただ、伊藤の葬儀は、つい半年前やはり異国の地で亡くなった長谷川の葬儀に比べて、何もかもが違っていて、山下には、どうしても違和感がぬぐえなかったのです。これは、葬儀の名を借りた凱旋なのではないか、あの統監道での「伊藤統監万歳」が、2年の時を経て、日比谷公園での最敬礼へと変化しただけではないのか。
正午過ぎに伊藤の葬儀は終了し、霊柩は馬車に移され、日比谷公園から、墓所となる大井町谷垂へと、去っていきました。墓所までの沿道も、「伊藤統監万歳」の歓声こそ無いものの、ずっと人々が埋め尽くしていることでしょう。また、谷垂の墓所には、伊藤の銅像建設が計画されている、とのことでした。ただ、伊藤の銅像は、過去(1904年)に神戸の湊川神社に建てられたものが、民衆の暴動で引き倒されてしまった経緯もあるので、谷垂の墓所の銅像も、この時点では未決定とのことでした。
(山下芳太郎(21)に続く)