1910年8月22日、大日本帝国は大韓帝国を併合する条約に調印しました。当日の朝日新聞号外は、以下のように伝えています。
●韓国合併
寺内統監と李総理大臣との間に特殊の協約成立し、去る16日、李総理は、これを韓国皇帝陛下に奏上したり。
李総理の奏上を受けさせられたる韓国皇帝陛下には、直にこれを太皇帝陛下に諮られしに、太皇帝は一言の疑いもなく、これを嘉納せられたり。
17日、寺内統監は、右の結果を全部電報にて、我が内閣に報告せり。右につき桂首相は、18日参内して伏奏する所あり。ついに今22日の枢密院会議を開くに至れり。発表は近日にあり。解決の形式は、協約に由るものにて、いまだその内容を報道すべからざるも、処分の性質が、合邦にあらずして合併なりとの事なり。長島秘書官は、何らかの要務を帯び、韓国に赴きしが、23日午後帰京すべく。寺内統監も、一先帰京のはずなるが、その時期は、いまだ明白ならず。あるいは、来月に入りての後なるべし。
そして8月29日、韓国併合条約が発効しました。この日、大韓帝国は消滅し、大日本帝国の一部となると同時に、その地域は「朝鮮」と呼ばれることになりました。
しかし住友は、韓国併合に関しては、しばらくは静観する方針でした。というのも、住友は過去に、釜山港と元山港に支店を出していたのですが、それらの業績が芳しくなかったため、結局、閉鎖せざるを得なかったのです。山下も住友にしたがい、朝鮮ではなく、内地での銅の生産に力を入れることにしました。
まずは、安治川北岸の住友伸銅場でおこなっていた銅線の生産を別会社とし、住友電線製造所を設立しました。それに合わせて、安治川北岸の工場を拡大し、中之島などに点在していた伸銅場を、安治川北岸に集約しました。こうすることで工場の生産量を、一気に増大させることができたのですが、今度は新たな問題が浮上します。安治川周辺の港湾設備の能力不足です。当時、大阪港で大型船を着岸できる桟橋は、天保山の先に造成された築港大桟橋だけであり、安治川へは小型船しか入れませんでした。住友伸銅場がさらなる増産をおこなおうとしても、別子銅山を中心とする原料の供給も、銅線など製品の積み出しも、いずれも船舶に頼っており、港湾設備の能力不足がネックとなるのは、火を見るより明らかでした。山下は、安治川と正蓮寺川、さらにはそれらをつなぐ六軒家川の掘削を、大阪北港の整備事業として立案し、船舶を繋留可能な岸壁を増やすことを計画しました。さらに、船津橋(中之島西端)までしか来ていなかった大阪市電を、桜島まで延伸することも、計画に盛り込みました。山下は、住友伸銅場だけでなく、安治川の北岸地域全体を発展させることを考えていたのです。
(山下芳太郎(22)に続く)