その一方で、別子銅山と四阪島製錬所の問題は、山下の頭を常に悩ませていました。別子銅山の鉱毒水については、煉瓦造りの坑水路と、東平・黒石・山根の3収銅所を建設することで、何とか被害を抑えることができました。しかし、四阪島製錬所の排煙は、新居浜から今治までの広い範囲に、亜硫酸ガスを垂れ流していたのです。1910年11月までに住友と鈴木は、新居浜~東予~今治の沿岸住民に対し、補償金を支払うとともに、今後は四阪島製錬所の増産をおこなわない、と約束していました。増産をおこなわなければ、増大する銅線の需要に応えられず、結果として、海外から銅の輸入を増やさざるを得ないのです。山下にとっても、四阪島製錬所の煙害は、死活問題となっていました。
山下は小倉正恒とともに、四阪島製錬所の煙害問題の解決に取り組むことになりました。亜硫酸ガスが問題となっている以上、排煙から亜硫酸ガスを分離できればいいのです。海外の技術を調査してみたところ、イギリスでは、グローバー(John Glover)が考案した塔式硫酸分離法が多く用いられていました。亜硫酸ガス[SO2]から硫酸[H2SO4]が分離できれば、さらに燐灰石[主成分はCa3(PO4)2]と反応させることで、肥料である過燐酸石灰[Ca(H2PO4)2 + 2CaSO4]が得られます。亜硫酸ガスによる煙害を解決できる上に、肥料まで得られるのですから一石二鳥です。ただ、グローバー法は、硫酸の分離率が必ずしも高くなく、どうしても、排煙に亜硫酸ガスが残留してしまいます。しかも、反応に鉛室を使うため、分離した硫酸に有害な鉛が含まれます。硫酸の濃度を高くして、亜硫酸ガスの濃度を低くし、さらには、硫酸に含まれる鉛の量を少なくできるかどうか、これが、煙害問題の解決と、肥料の製造における鍵になりそうでした。
山下らの報告を受けて、鈴木は1913年9月、新居浜に肥料製造所を開設しました。肥料製造所という名称ではあるものの、基本的には化学実験施設で、亜硫酸ガスの濃度を下げる研究や、塔式硫酸分離法における硫酸の純度を上げる研究も、肥料製造の研究と同時におこなうものでした。また、肥料製造所の開設に加え、四阪島製錬所の煙突を6本に分け、送風機で亜硫酸ガスを拡散することで、濃度を下げる試みもおこなわれました。ただし、この6本煙突は、現実には、沿岸地域の亜硫酸ガス被害を軽減できなかったばかりか、四阪島内部での亜硫酸ガス濃度を上げる結果となってしまい、2年半ほどで稼働を取りやめてしまいました。
(山下芳太郎(23)に続く)