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曲のエピソード
今なお現役の人気ロック・バンド、エアロスミスの代表曲だが、最大ヒット曲ではない。今のところ、唯一の全米No.1ヒット曲は「I Don’t Want To Miss A Thing」(1998/全米チャートで4週間にわたって首位の座をキープ)。その他も全米トップ10ヒット曲は複数あるが、この「Walk This Way」が彼らの代名詞的な曲になっているのには、理由がある。
まだ世間の人々がラップ・ミュージックに対して懐疑的だった1980年代半ば、すでにアフリカン・アメリカンの人々の間では人気者になっていたラップ・グループのRUN-D.M.C.がこの曲をカヴァー(とは言え、歌詞の内容は異なる)し、全米No.4を記録する大ヒットとなったのだ。当時、これは快挙だった。同曲のプロモーション・ヴィデオには、エアロスミスのリード・ヴォーカルのスティーヴン・タイラーとギター担当のジョー・ペリーも出演している。以降、沈滞気味だったエアロスミスの人気も回復し、ライヴのアンコールでは必ずこの曲を演奏するのが常となったと言われている。
タイトルは、メンバーのひとりが映画『YOUNG FRANKENSTEIN』(1974)の中で登場人物が口にする“Walk this way.(=俺について来い)”からインスパイアされたもの。が、歌詞では違う意味で使われている。端的に言えば、これは童貞喪失願望を抱く男子高校生の悶々とした気持ちを吐露した曲で、憧れの女性は同校のチアリーダーという設定。
曲の要旨
まだ性の体験がなく、妄想で頭がいっぱいの男子高校生。毎日のようにベッドの中でモゾモゾする日々を送る。ある日、かねてから思いを寄せている学校のチアリーダーの父親に胸の内を打ち明けると、「女も抱いたことがないんじゃ、一人前の男とは言えない」と一喝されてしまう。ただでさえモテないこの男子高校生、そこで大いに発奮してチアリーダーの彼女に言い寄ってみると…。彼女は、モテるための歩き方(=walk this way)やら話し方やらを得々と説いてみせるのだった。ちょっぴり自信がついた彼は、近所の奥さんやその娘にまでアプローチを仕掛ける始末。童貞喪失願望の結末はいかに…?
1976年の主な出来事
アメリカ: | 民主党のジミー・カーターが大統領選挙で当選。 |
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アレックス・ヘイリー著『ルーツ(The Roots)』がベストセラーに。 | |
日本: | いわゆるロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕される。 |
世界: | 中国の初代国家主席の毛沢東死去。 |
1976年の主なヒット曲
Saturday Night/ベイ・シティ・ローラーズ
Love Machine/ミラクルズ
Silly Love Songs/ウィングス
(Shake, Shake, Shake) Shake Your Body/KC & サンシャイン・バンド
If You Leave Me Now/シカゴ
Walk This Way のキーワード&フレーズ
(a) backstroke lover
(b) ain’t
(c) hey, diddle diddle
(d) they was
かつての邦題は「お説教」。今ではカタカナの「ウォーク・ディス・ウェイ」。何故に1976年当時に「お説教」なる不思議な邦題が付いていたかと言えば、考えられる理由はこれしかない。タイトル部分が歌われている「彼女が俺に~しろと言った」のサビである。ここのフレーズからヒントを得て「(彼女から受けた)お説教」となったのだろう。ある意味、ひねりの効いた邦題である。でも、ちょっと違うんだな、これが。
要旨でも述べたように、この曲は単純に言うと“男子高校生の童貞喪失願望ソング”である。性に目覚めたばかりの頃の少年なら、誰もが一度は通り過ぎる道だ。そこをどうやって乗り越えたかを、エアロスミスのこの曲はじつに写実的に、時に面白おかしく歌ってみせる。
初っ端のフレーズに登場する(a)からして、主人公の高校生が日々、格闘している下半身のムズムズ感を巧く表している。直訳するなら「背泳ぎ大好き野郎」。――全く以て意味不明だし、歌詞のどこにも主人公が高校の水泳部に属していることが記されていない。ここを正しく解釈するには、辞書に載っている意味がかえって邪魔になる。
まず、「背泳ぎ」の恰好を思い浮かべてみて欲しい。仰向けになって、両腕をぐるぐる回す。しかもその動作を「the cover の下で」やっている、というのだから、ちょっと異様な光景だ。そこから想像を膨らませると、最初のフレーズが「自慰行為」を示唆している、ということに気付く。「ベッドに仰向けに横になり、ジタバタするティーネイジャーの男の子」。もうお判りでしょう? ここを正しく解釈できなければ、主人公の煩悶に気付くことはできない。比喩的ながら、じつに面白いフレーズだ。“lover”は、この曲の主人公自身を指す。第三者を装いながら、じつは自分が「~が大好きな人、~の愛好家」、すなわち「自慰行為に溺れている自分」となる(サスガに赤面しますね)。ここは、思いっ切り想像力を働かせないことには、絶対に真意が判らない。直訳が誤訳になってしまうのを地で行くようなフレーズ。この曲がヒットした背景には、当時、(a)が登場するフレーズに共感した高校生の男の子が大勢いた、と考えられる。嗚呼、青春!(再び赤面)
筆者は大学時代に、授業でウィリアム・フォークナーの『LIGHT IN AUGUST(八月の光)』(1932)を学んだ。登場人物のメイドが言うセリフに(b)が出てきて、学生の一人が教授に向かって次のような質問をした。
生徒「先生、“ain’t”って何ですか?」
教授「それは無教養者の言葉なので覚えなくて宜しい」(強調筆者)
――愕然とした。筆者が長年にわたって愛聴してきたR&B/ソウル・ミュージックのタイトルや歌詞には、“ain’t”が多用されているからだ。また、それ以外のジャンルでも、“ain’t”をよく見聞きする。タイトルを挙げるなら――
(1) Ain’t No Mountain High Enough/マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル(1967)
(2) Ain’t It Funky Now/ジェームス・ブラウン(1970)
(3) Ain’t Nobody/ルーファス&チャカ・カーン(1983)
(4) It Ain’t Over ’Til It’s Over/レニー・クラヴィッツ(1991)
(5) Ain’t Got Nothing If You Ain’t Got Love/マイケル・ボルトン(1994)
“ain’t”を簡単に説明すると、人称や時制に関係なくbe動詞や助動詞の“do”、完了形の“have”の否定形として使われる言葉である。なるほど、英和辞典で調べてみると、そこには“《非標準》have [has] not の短縮形”とある。が、それだけでは説明不足だ。
“I am not ~”の短縮形“I amn’t ~”は、辞書によると「アイルランド、スコットランド、アメリカの方言」とのこと。実際のところ、“amn’t”を映画のセリフや日常の英会話でかつて耳にした経験は一度もない。代わりに“I ain’t ~”を頻繁に見聞きする。クリントンだったかブッシュ(父親の方)だったかは忘れてしまったが、アメリカ大統領だった双方のいずれかが“ain’t”を口にしたのをCNNか何かで耳にしたこともあった。決して“無教養者の言葉”ではないのである。もちろん、正規の英語ではないが。
上記の5曲を“正規の英語”に書き換えてみると――
(1) There is no mountain that is high enough.
(2) Isn’t it funky now?
(3) There is nobody.
(4) It isn’t over ’til it’s over.
(5) You haven’t got anything if you haven’t got love.
これで“ain’t”の多岐にわたる使われ方が少しはお解りいただけただろうか。“ain’t”は否定語と共に用いられることが多く(アフリカン・アメリカン特有の英語 Ebonics の最大の特徴でもある)、その際の二重否定は「~が~でないことはない」ではなく、否定を強調するので、「決して(絶対に)~ではない」という意味になる。例えば、
I don’t want nobody.
というセンテンスだと、「私は誰も求めているわけではない」ではなく、「私には誰ひとり必要がない」という意味になり、そこに言葉を補足して“I don’t want nobody if I can’t have him.”とすると、「もし彼が私のものにならないのなら、私にはもう誰も要らない(=彼以外の男の人は欲しくない)」となる。当然のことながら、正しい英文は“I don’t want anybody.”だが、砕けた表現として、この二重否定=否定の強調は日常会話でもよく用いられる。
唐突な感じが否めないのは、(c)のフレーズ。これは、イギリスの伝承童話『マザー・グース(MOTHER GOOSE RHYMES)』にある“Hey, diddle, diddle/The cat and the fiddle/The cow jumped over the moon/The little dog laughed to see such sport/And the dish ran away with the spoon.”がもとになっている。大まかに言うと、「猫がヴァイオリンを弾き、牛が月を飛び越える」という非現実的な光景を詩にしたもの。何故に「Walk This Way」にこの最初のフレーズが「チアリーダーがシーソーに乗りながら口にした一節」として出てくるかというと、『マザー・グース』のこの詩に登場する“the cow”の姿を彼女に投影したから。すなわち「月を飛び越える牛のように大股を広げて(=下着が見えるほど)両足を高く上げてシーソーに興じている」と言いたいわけ。肝心なのは、牛が“ox(オス牛)”ではなく“cow(メス牛)”であること。更に言えば、このフレーズが歌われる際に、バックでカウベルの音が鳴るのは、エアロスミスのシャレである。茶目っ気タップリだ。
このように、洋楽ナンバーには、『マザー・グース』や欧米の子守唄からの一節が歌詞に組み込まれている場合がある。『聖書』からの一節も多い。欧米人にはそれが何を指すのかがすぐさま判るだろうが、日本人にはとっさに理解するのが難しく、そうしたフレーズはかなり唐突に聞こえる。前後のフレーズと較べて不釣り合いなほど唐突なフレーズに出くわしたなら、そこには何かしらの出典があると思って間違いない。その多くは『聖書』と『マザー・グース』である。ごくたまに、シェイクスピアの作品が出典である場合も。
みなさんは、“He don’t come.”などという文法の法則を無視した英文を見聞きしたことがあるだろうか。英語に精通した某有名作家が、「アメリカ人は誰も“He doesn’t come.”なんて言わない。“He don’t come.”で通じるんだから」とインタヴューか何かで発言していたのを聞いたことがある。トンデモナイ!
三人称単数現在の動詞には必ず“-s”が付くと、中学英語の早い時期に習うではないか。“don’t”は“doesn’t”になる、と。確かに、そうした不規則的言い回しもなくはないが(そして洋楽ナンバーの歌詞にも頻出するが)、正しくないものは正しくない。あえて“He don’t come.”などと、気取って(?)言う必要もない。
では、(d) の“they was”はどうか。もちろん、ダメである。もともと、人称を無視したbe動詞や現在形の動詞は、Ebonics に多い(“We is…”や“You was…”など)。ありていに言えば砕けた言い方、ということになろうか。が、エアロスミスが“they were”と言わねばならないところを“they was”としたのは、わざと砕けた言い方をしてみたかったから、という外ない。間違っていると判っていて用いているのである。ちょっと知能犯的。
その昔、左手が腱鞘炎になりつつも、筆者が日々ラップ・ナンバーの聞き取りに励んでいた頃、ギョッとするような表現に出くわした。“You’s…”である。どう考えても、“You’re…”であるはずのフレーズなのに、動詞の“use”と同じ発音にしか聞こえない。かと言って、そこを“use”と聞き起こしてしまうと、どうにもこうにも意味が通らない。そこで、あっ!と気付いた。これはエボニクス、ひいては昔のアメリカ南部英語の言い回しだと。それに気づくことができたのは、大学時代の卒論のテーマにアメリカ南部英語満載のアリス・ウォーカーの『THE COLOR PURPLE』(1983/訳本の初版は『紫のふるえ』、後に『カラー・パープル』に改題)を選んだお蔭だった。同書には、“Us(正しくはWe)is….”といったセンテンスが頻出する。もとの形を知らずして、それを正しく解釈することはできない。ゆえに、“He don’t come.”を普通に使っていい、なんていう道理はどこにもないのだ。
今でもエアロスミスのライヴでは、「Walk This Way」をパフォーマンスすると観客が異様に盛り上がるという。すっかりオジサンになった彼らが青春時代の甘酸っぱい思い出を汗を飛び散らせながら演奏する時、観客の中に紛れている彼らと同世代の殿方は、一瞬、遠くを見る目になるのではないだろうか。二度とは戻らない、童貞時代のウレシハズカシ思い出。