昭和47年5月15日、沖縄が日本に復帰しました。ではこの時、日本に復帰したのは、「沖縄県」だったのでしょうか、それとも「沖繩県」だったのでしょうか。
本土の総理府の見解は「沖繩県」で、旧字の「繩」でした。戦前は「沖繩縣」が正式名称であり、戦後は当用漢字字体表の告示で「沖繩県」となったが、旧字の「繩」は当用漢字に含まれてないので変更されていない、というのが総理府の考えでした。一方の沖縄県は、復帰前の琉球政府が基本的に「沖縄県」を使用していて、本土復帰と同時に告示された県庁の表札も「沖縄県庁」でした。総理府は旧字の「繩」なのに、当の沖縄県は新字の「縄」。四半世紀に渡るアメリカ支配は、こんなところにも陰を落としていたのです。
その当時、国語審議会は、当用漢字に含まれていない都道府県名の漢字14字(茨・栃・埼・奈・潟・梨・阜・岡・阪・媛・崎・熊・鹿・繩)に関して、議論を進めていました。当用漢字は本来、地名を対象としていないのですが、それでも「繩」や「潟」に関しては新字旧字の問題があるので、国語審議会として何らかの見解を示しておくべきだろう、ということでした。
昭和52年1月21日、国語審議会は新漢字表試案を発表しました。新漢字表試案は、当用漢字に83字を追加し33字を削除する案で、 1900字を収録していました。この追加案83字の中に、新字の「縄」が含まれており、さらに「縄」の康熙字典体として、旧字の「繩」がカッコ書きで添えられていました。つまり、「縄(繩)」となっていたわけです。実は、国語審議会が太平洋戦争中に答申した標準漢字表においても、やはり「縄(繩)」となっており、新漢字表試案は結果的に、これを踏襲したものになっていました。ちなみに、「潟」も追加案83字に含まれていましたが、こちらは旧字の「潟」でした。「陥(陷)」「児(兒)」「稲(稻)」と違って、「潟」の「臼」の部分を「旧」に変えたりしなかったのです。
昭和56年3月23日、国語審議会が文部大臣に答申した常用漢字表でも、新字の「縄」が収録されており、旧字の「繩」がカッコ書きで添えられていました。やはり「縄(繩)」となっていたわけです。これに対し民事行政審議会は、昭和56年4月22日の総会で、常用漢字表1945字を子供の名づけに認めると同時に、常用漢字表のカッコ書きの旧字355字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを、子供の名づけに認めることにしました。旧字の「繩」は、常用漢字表のカッコ書きに入っているけど、当用漢字表に含まれてなかったのでダメでした。昭和56年10月1日、常用漢字表は内閣告示され、新字の「縄」が子供の名づけに使えるようになりました。旧字の「繩」は人名用漢字になれませんでした。それが現在も続いていて、新字の「縄」は出生届に書いてOKですが、旧字の「繩」はダメなのです。