第13回で先生に不定冠詞について質問しに来た学生さん。今日は続きの質問をしに先生の研究室にやってきたようです。
学生:先生、昔の質問の続きがあるのですが、いいですか?
先生:なんだい?
学生:前に、de bons restaurants の de がなぜ des ではいけないかということについて質問したことがありましたよね 。その時、現代フランス語の部分冠詞の du, de la, de l' や、不定冠詞の複数形の des が、「…の一部」を表す部分詞の de と、定冠詞の組み合わせに由来するということを教えてもらいました。
先生:そうそう、形容詞が名詞の前に来るときには形容詞と定冠詞が続くと、限定が二重になってしまうから、それを避けるという意識が働いた、と説明したよね。
学生:その際に、「ゼロの冠詞」も部分詞の de に由来するのですか? と聞いたら、先生は「その質問は、また今度にしようね」とおっしゃったのでした。
先生:そうだった、そうだった。「ゼロの冠詞」というのは、初級の文法で、否定文と一緒に習う、Je n'ai pas de frères.「私には兄弟はいない」の de のことだね。
学生:そうです。動詞の直接目的補語につく不定冠詞や部分冠詞が、否定文になると de になるという文法事項です。
先生:結論から言えば、部分詞の de というよりも、beaucoup de..., un peu de... の de のような数量副詞と名詞を結びつける前置詞の de に由来するということになる[注1]。
学生:どういうことですか? よくわかりません。教えてください。
先生:それでは、前提として、現在の部分冠詞にあたる du, de la, de l' と、不定冠詞の複数形にあたる des の意味の歴史的変化について復習しておこう。これらに含まれる定冠詞は、初期のフランス語では「それ、それらの」という指示的な意味で使われていて、名詞が表すカテゴリーの全体を指して「…というもの」という意味になる総称用法はなかったと言ったよね。
学生:はい、ですから、初めはこれらの表現は、何か特定のものの一部分ということを指していたと教えてもらいました。du pain といえば、「不特定のパン」ということではなくて、例えば、目の前にあるパンの一部ということを表していたと。また、先生は、定冠詞が総称用法に転じて、du pain が「不特定のパン」という意味を持つようになるのは、13世紀以降のことだともおっしゃっていました。
先生:その通り。じゃ、13世紀より前は、どこからとってきたか、どの程度の量かについては特に断りなしに「パン」という時は、どう言っていたのだろうか?
学生:無冠詞で painと言っていました。また、13世紀以降も、不特定のパンのことをいう pain と du pain は両方とも使われていて、17、18世紀になってもまだ無冠詞の例があると教えてもらいました。
先生:その通り。よく理解できているね。それを、こんな風に表にまとめたんだったよね。
13世紀より前 | 13世紀以降 | |
---|---|---|
不特定のパンを食べる | mangier pain | mangier pain, mangier del pain |
特定のパンの一部を食べる | mangier del pain | mangier del pain |
じゃ、次の質問だけれど、例えば「塩がない」という場合、初期のフランス語ではどう言っていたと思う?
学生:うーん、その質問は、きっとこの表のどこかに答えがあるということですよね。じゃあ、無冠詞で、例えば、« *Il n'y a pas sel. » とでも言っていたんじゃないですか?
先生:古フランス語ではこのような場合、非人称の il と 否定の pas は言わないのが普通なので、ここでは « N'i a sel. » としておこうか。sel が無冠詞になるというのは、その通りだよ。どうして無冠詞だと思った?
学生:「ない」ということを言うのであれば、量も、どこからとってきたかということも、問題ではないからです。
先生:素晴らしい。正しく推論できているよ。12世紀の終わりから13世紀の冒頭に成立したと推測されている『狐物語』Le Roman de Renart の第12枝篇「ティベールの晩課」には、狐のルナールが、家に妻が食べるものを何も残して来なかったと嘆いて言う場面がある。
je ne laissai hui a l'ostel / ne pain, ne vin, ne char, ne sel, / dont ele se poïst disner ; [...][注2]
「今日は屋敷に、パンもワインも肉も塩も、彼女の昼食になるようなものは残さなかった」
pain「パン」やvin「ワイン」やsel「塩」が無冠詞になっているよね。これらの語の前に置かれた ne は、現代フランス語の否定の等位接続詞の ni にあたるものだよ。
学生:なるほど。では、どうして、もともと無冠詞だったのが、現代フランス語では、「ゼロの冠詞」がつくようになったのですか?
先生:それは、否定文のあり方が変化したことと関係している。現代フランス語の標準的な否定文は、動詞を ne と pas で挟んで作るわけだけれど、これらは何に由来するか知っているかい?
学生:ne の語源はラテン語の non だと前に教えてもらいました[注3]。pas は「一歩、二歩」の「歩」でしたね。
先生:その通り。その時に説明したことだけど、ラテン語では、non だけで否定文を作ることができたんだよね。初期のフランス語でも、それと同様に、ne だけがあれば十分だったのだけれど、どうも、11世紀頃に、これだと表現として物足りないということになったらしく、否定文では、最小限のことを表す言葉が ne と一緒に使われるということが起こった。pas は、最初、移動を表す動詞と一緒に使われて、「一歩も進まない」というように否定のニュアンスを強める働きをしたのが、否定表現で一般的に使われるようになったと考えられている[注4]。
学生:そうでした。今年(2020年)の日本の夏は、コロナ禍の上に、地域によっては雨不足でしたけれど、たしかに、ただ「雨が降らない」と言うよりも「一滴も雨が降らない」って言った方が、いかにもみんな困っているという感じになりますよね。話し言葉の中で出てきたものという感じがします。
先生:その通り。前にも少し触れたような気がするけど、「一滴も」と言うのを元にした、ne... gote(現代フランス語:goutte)という表現も使われていた。『狐物語』の中で最初に成立したとされている第2枝篇「ルナールとエルサン」の一節にこんな文がある。
N'ose mot dire tant se doute, / qar Isengrin ne l'aime goute.[注5]
「(ルナールは)一言も発せないほどに恐れていた。なぜなら、イザングランはルナールのことをまったく好いていなかったから。」
仇敵(きゅうてき)の狼の巣穴に、それと知らずに入り込んだ狐のルナールが、狼の妻や子供がいるのを見て、それと気がついて不安にかられているという場面の描写だ。この例では « goute » は、もともとの「一滴も」という意味から離れて、「ぜんぜん」という意味の副詞として使われている。ne... pas の pas と同様に、本来の意味から離れて一般的な否定の強めとして使われているということだ。他にも、食べ物に関する表現で、「パンくず」という意味の mie が使われる否定の表現もあったね。否定表現を ne とともに作る pas や、gote や、mie は、もともと、歩みや、液体や、パンを構成する最小単位を意味していた。それが本来の意味から徐々に否定の表現全体に使われるようになっていったというように推測することができる。だけど、この問題について、たいへん丁寧に論じているリュシアン・フーレ Lucien Foulet(1873-1958)という20世紀前半に活躍した文献学者も、古い時代にあった原義通りの用法から、それらの意味が希薄化していく過程を順を追って紹介することは、必ずしもできていない[注6]。どうやら君の言う通り、中世において話し言葉の中で出てきた表現が、一挙にテクストの中に入ってきたということのようだね。
学生:なるほど、今の文例の前半にある « mot » も現代フランス語で pas が置かれるのと同じ位置にありますね。
先生:ne... mot という表現も、否定の強調の一つで、「一言も言わない」ということだ。ただし、これは、dire 「言う」や、「(言葉を)発する」という意味の soner(現代フランス語:sonner)以外とは結びつけられることはなかった。
学生:へえ、否定表現一般に用いられるようになったものと、そうでないものがあるのですね。
先生:このように話し言葉の中で出てきた多様な表現の中から、偶然が重なって、ne... pas が一般的な否定表現として現代フランス語まで生き残ったというわけだ。
学生:あれ、先生、もともとの質問は、「ゼロの冠詞」の de の由来についてだったのですが。
先生:「ゼロの冠詞」の de も、これまで述べてきた否定表現の一つに由来していると言われているんだ。先ほどあげたリュシアン・フーレは、今も使われている ne... point「まったくない」という否定表現が多用されたことによると説明している。
学生:どういうことですか?
先生:point は「点」という意味だけれど、これが「最小限の量」や「最小限の数」という意味で使われたのが、この否定表現だ。point は、数量副詞(現代フランス語で言えば、beaucoup や assez)と同様に、部分を表す前置詞の de を介して名詞が結びついて使われることになった[注7]。beaucoup de... や assez de... と同じく、point de... といった風にね。尖ったものの先の「点」を表す point は抽象性が高いだけに、「歩み」を表す pas や「パンくず」を表す mie よりも、広く多様な名詞を結びつけることが可能だったというわけだ。de の後には、可算名詞も、不可算名詞も続くことができた。また、ここでは「ない」ことが問題になっているので、後に来る名詞は、特別な場合を除けば、特定する必要はなく、de の後の名詞は無冠詞になる。つまり、de 以下は、外見上、現代フランス語文法で言う「ゼロの冠詞」de + 名詞とまったく同じになるというわけだ。これも、12世紀後半の『狐物語』の第4枝篇「井戸にはまったルナール」からの引用だけど、
Il ne fera mais point de guerre,[注8]
「やつ〔=イザングラン〕は、もう悪さをすることもないだろう。」
修道院の井戸に落ちた狼のイザングランを、修道士たちが散々に痛めつけるのだけれど、これは修道院長の台詞で、もうそこまでにしておけ、と言っているというわけだ。この文では、« de guerre » は « point » との結びつきが強いけれども、やがて、否定の ne との結びつきが強くなり、さらには、point ではなく、一般的な否定辞となった pas が使われる際にも、当たり前のように使われるようになる。この point から独立した de + 名詞の de が、「ゼロの冠詞」の起源というわけだ。
学生:部分冠詞と不定冠詞の複数形で習ったことと併せて考えれば、「ゼロの冠詞」 de + 名詞は、無冠詞 + 名詞と併存した時期が長く続いたとのではないでしょうか?
先生:その通り。16世紀の段階では、否定文では無冠詞なのが普通で、de を付すのは部分であることを強調するときとされていた[注9]。17世紀になるとそれが変化する。古典期のフランス語の文法の整理に取り組んだ詩人のマレルブは、avoir foi「信用する」のような成句の場合も、否定文にする場合は、Je ne puis plus avoir de foi à ses paroles.「もう彼(女)の言葉には信頼がおけない。」のように、名詞の前に de を置くべきだと主張した[注10]。それだけ、「ゼロの冠詞」の de を使うことが当たり前になったということだね。
学生:なるほど、「ゼロの冠詞」の de の成立には、point という言葉が関わっていたらしいことは理解できました。point が量的なものも、数的なものも、部分の前置詞の de を介してうけることができたので、否定表現の名詞の前に、de が頻繁に表れるようになったから、という訳ですね。でも、point がそんなに便利な表現だったのなら、一般的な否定の表現になったのは、どうして ne... point ではなくて、ne... pas だったのでしょうか?
先生:それは、僕にとっても、ものすごく不思議なところだ。あえて言うなら、否定の強調という現象が、極めて口語的な現象だったということかな。文法的に最も整合性があるものというような基準ではなく、最も多くの話者が選択したものというところで生じた変化ということになるね。
学生:「point を使うのと、pas を使うのと、どちらがフランス語として正しいと思ますか?」というアンケートを話者にとったり、「有識者」が議論したりする前に、pas という選択が自然となされていたというわけですね。
[注]