学生:今日のフランス語の授業で「否定文」を習ったのですが、英語だと not だけで否定の意味を表すところ、フランス語では ne... pas とわざわざ2つの語を使うのですね。何か新鮮です。
先生:いくつか他の言語に目を向けてみると、1語で否定を表す言語の方が多い印象だよね。
仏:Je ne suis pas étudiant.
伊:Io non sono studente.
西:Yo no soy estudiante.
英:I'm not student.
独:Ich bin nicht Student.
学生:どうしてフランス語は、2語を使うのでしょうか。
先生:実は、元々フランス語も1語だけで否定文を作っていたんだよ。古フランス語では、動詞の前に ne や nen をつけるだけで文に否定の意味合いを持たせることができたんだ。これらは古典ラテン語の non に由来していて、子音の前では ne、母音の前では nen や n' が使われていたんだよ。
学生:ne や nen だけで否定を表すのなら、pas は何を意味しているのでしょうか。
先生:pas は、現代フランス語にもある「歩、歩み」のことで、否定を強調するために使われた語だよ。さっきも言ったように、古フランス語では ne や nen といった1語だけで否定文を作っていたんだけど、11世紀以降になると ne や nen だけで「否定」を表すのが弱いと感じられるようになった[注1]。そこで、ごく小さな数量や分量を示す語を ne や nen と一緒に用いることで、否定のニュアンスを強調するようになるんだ。たとえば ne... pas は直訳すると「一歩も…ない」という意味で、古フランス語ではもともと移動を示す動詞と使われることが多かった。Il ne vient pas. というと「彼はもう一歩も進むことができない」みたいな意味だったんだよ。日本語で考えても、「もう歩けない」というよりかは「もう『一歩も』歩けない」という方が、歩く力が残っていない感じが強調されるよね。
学生:確かに「一歩」のあるなしでは印象が大きく変わりますね。
学生:ちなみに、先ほど「小さな分量を示す語」とおっしゃいましたが、pas 以外にも何か強調に使われている語があったのでしょうか?
先生:古フランス語にはたくさんあったね。たとえば、名詞の mie(パンくずひとかけら)とか。Il ne manjue mie. だと「彼はパンくずひとかけらも食べていない」。他にも否定辞の ne と組み合わせて、gote(一滴も…ない)とか point(一点も…ない)とか。prisier「評価する」とか valoir「価値がある」といった動詞には、否定辞 ne との組み合わせで、un pois(えんどう豆一粒ほども…ない)、un ail(ニンニク一片ほども…ない)、un cive(ねぎ一本ほども…ない)、un festu(わらしべ一本ほども…ない)といった否定表現のバリエーションがあったんだ[注2]。否定を強調するこれらの語は、最初の頃は動詞の意味に合わせて使われていたのだけれど、次第にもとの名詞の意味とは関係なく、否定を示す文法的機能語となっていったんだよ。そうした表現のほとんどは現代語には残らなかったんだけど。
学生:そうだったんですか。つまり、古フランス語の段階では ne や nen だけで否定文を作っていたところ、否定を強調するために pas, gote, mieなどの名詞を後につけ、その形態が現在にまで残っているというわけですね。
先生:まとめるとそうなるね。ちなみに現代フランス語では ne... pas と2つの要素を使わないで、pas だけで否定を表すことがよくあるね。特に口語では ne が省略される場合が多い。Je ne sais pas. → Je sais pas. という風にね。この ne の省略は現代フランス語では顕著なんだけれど、実は17世紀初頭から確認されているんだ[注3]。
学生:フランス語の否定は最初は ne だけ、それから ne... pas などの2つの要素を使うようになって、そして pas だけを使うという具合に変化していったのですね。
[注]