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「四字熟語と太宰」(その5 最終回)

2009年 7月 21日 火曜日 筆者: 円満字 二郎

夢の記憶

 近ごろ、あまり夢を見なくなった。
 いや、見てはいるのだ。ただ、ほとんど記憶に残っていない。夜中にふと目ざめて、あ、いま、夢を見ていたな、と思う。その瞬間には、どんな夢だったか、確かな記憶があるような気がする。でも、朝になってみると、夢を見ていたという感触があるだけで、どんな夢だったかは、皆目、忘れてしまっている。
 夢の残り香。そんなふうに呼びたくなるようなものだけが、心の底に残っている。
 かと思うと、真っ昼間に突然、夢を感じることがある。たとえば、確かに交わしたはずのだれかとの会話。それをなんとなく思い出しているときに、急に「あれは夢だったのではないか」と思えてくるのだ。あのひとがあんなところにいるわけはない。あんなことをしゃべるはずがない。そう考え出すと、それまで鮮明な記憶だったものが、あっという間にぼやけてきて、リアリティのない、頼りなくふやけたものと化してしまう。
 夢は知らないうちに、ぼくの人生の中に入り込んでいるのかもしれない。ひょっとすると、ぼくがとても大切にしている思い出のいくつかだって、夢の記憶なのかもしれない。そんなことを思ったりもする。

 『フォスフォレッセンス』は、太宰が自殺する1年ほど前に発表された、短編小説である。主人公の「私」は、自分のことを「夢想家」だという。
 「私は、一日八時間ずつ眠って夢の中で成長し、老いて来たのだ。つまり私は、所謂この世の現実で無い、別の世界の現実の中でも育って来た男なのである。」
 夢の中には別の生活があり、そこには「この世の中の、どこにもいない親友」もいれば、「この世のどこにもいない妻」もいる。そうして、「夢の国で流した涙」は、この世にまでつながっている。「この二つの生活の体験の錯雑し、混迷しているところに、謂わば全人生とでもいったものがあるのではあるまいか」。
 そんな「私」は、ある日、ふとしたことから、現実の世界で「あのひと」が暮らしている家を訪ねることになる……
 文庫本にしてわずか10ページ足らず、けっして太宰の代表作というわけではない。が、夢の中から出てきて夢の中へと帰って行くような、この小品の読後感は、忘れられない。一番好きな太宰作品を挙げろと言われたら、『フォスフォレッセンス』と答えるかもしれない、とさえ思う。

 だから、『太宰治の四字熟語辞典』でも、この作品をぜひとも紹介したかった。しかし、それはできない相談だった。なぜなら、この小品には、四字熟語が登場しないからだ。漢字4文字の連なりを探しても、せいぜい「襲名披露」とか「自粛休業」が出てくるくらい。これでは、さすがに、お手上げである。
 でも、それでよかったのだ。四字熟語という刃をふるって太宰に斬り込もうというのは、1つの方法でしかない。太宰に限らず、文学という広大な広がりを持つ世界が、ある1つの方法で覆いきれるはずはないだろう。『フォスフォレッセンス』の存在は、そのことをやわらかに示しているのではないだろうか。
 近ごろ、夢をあまり覚えていないぼくにとって、それは夢の実在の証であるのかもしれない。夢が残っている限り、ひとは、物語をつむぐことができるのだろう。

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【著者プロフィール】

円満字 二郎(えんまんじ・じろう)
1967年兵庫県生まれ。大学卒業後、出版社にて高校国語教科書や漢和辞典などの編集に従事。
現在は、フリーの編集者兼ライターとして多方面に活躍中。著書に、『大人のための漢字力養成講座』(ベスト新書)、『人名用漢字の戦後史』(岩波新書)、『昭和を騒がせた漢字たち』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『心にしみる四字熟語』(光文社新書)、『漢和辞典に訊け!』(ちくま新書)がある。

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【編集部から】

本年は、太宰治の生誕100年にあたります。このたび刊行されました『太宰治の四字熟語辞典』は、実際に用いられた四字熟語の意味や背景を解説しながら、作品世界を自由に読み解く異色の太宰文学案内です。著者の円満字二郎さんに、執筆時のこぼれ話を隔週で連載していただきます。

2009年 7月 21日