タイプライターに魅せられた男たち・第60回

黒沢貞次郎(13)

筆者:
2012年11月15日

1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、日米は開戦しました。18歳から26歳までの8年間をアメリカで過ごし、その後もアメリカと関わりながら生きてきた黒沢にとって、日米開戦は断腸の思いでした。しかし黒沢は、あくまで日本人として、軍需品とも言える「和文印刷電信機」の製造を続けていました。ただし黒沢は、蒲田工場内の小学校を「国民学校」に改組することだけは、断固として抵抗しました。黒沢は、蒲田工場で「皇国民」を錬成する気は、毛頭なかったのです。結局、蒲田工場内の小学校は、1944年3月で閉校となりました。

1945年になると、日本は敗戦色が濃厚になってきて、東京上空にもB-29が飛来するようになりました。4月15日の大空襲で、蒲田は壊滅的な打撃を受け、黒沢商店蒲田工場も操業停止の状態に陥りました。一方、銀座も何度も空襲を受けたのですが、黒沢ビルは奇跡的に焼け残りました。そして、8月15日の敗戦を迎えたのです。焼け残った黒沢ビルは、1946年1月に接収され、米国赤十字社ビルとなりました。

敗戦後、黒沢は早速、黒沢商店の活動を再開しました。戦時中は輸入が途絶えていたものの、黒沢商店はスミス・コロナ社の日本総代理店です。当初は、GHQが払い下げたタイプライターや、故障品を修理して取り扱っていましたが、1947年8月の貿易一部自由化以後は、シラキューズのスミス・コロナ社との直接取引を再開しました。けれど黒沢は、戦後になっても、黒沢商店を法人化しませんでした。あくまで個人商店としてやっていきたいと考えていたのです。この結果、黒沢は、1951年度の長者番付日本一となりました。もちろん税金も日本一ですが、黒沢自身は、こう述懐しています。

税金はなかなかに高い。しかし、正しく計算してみると、それが法的に正当なものとなっており、いやがおうでも、そう決っとるから、そう出さんならん。税金を払ってしまえば、それこそあとには一銭も残らん。それでも、生命までもということにはならぬので、一人前に喰わして貰って、働かせて貰って、社会に貢献させて貰うんですから、まア有難いことですよ。わたしが全国一になったというのも、わたしが全国一に儲けたわけでなく、ただ全国一に要領がわるいか、全国一に正直者であるかというだけなんです。ねえ、そうじゃ御座んせんか。

1952年2月、黒沢ビルの接収が解除されました。黒沢はほぼ毎日、銀座に出かけていき、接収で変わり果てた黒沢ビルを、自らのコテで復旧・修理しました。そして、1953年元旦、黒沢は、自宅で脳溢血に襲われます。1月26日、黒沢は帰らぬ人となりました。78歳の誕生日の3週間後でした。黒沢の告別式は、讃美歌の中、2月2日に黒沢ビルでおこなわれました。

黒沢が個人商店を貫いたがために、残された遺族は、莫大な相続税を支払う羽目になりました。蒲田工場の土地はその多くを売却し、税金に充てるしかなかったのです。この結果「吾等が村」は消滅しました。けれども、銀座の黒沢ビルは1979年まで残り、解体後、翌1980年にはクロサワビルとして復活しました。今も銀座五丁目交差点の西角には、黒沢の愛した黒沢ビルが、少し形を変えながらも佇んでいるのです。

(黒沢貞次郎終わり)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。