ことばの美しさを考えるとき、私がいつも思い出すエピソードがある。以前、大学で学ぶ留学生たちを引率して小学校を訪問し、小学校5年生と交流した授業でのことである。中国から来たある学生が、中国語について簡単な紹介をした。中国でも漢字を使うが発音は日本語とは全然違うという話をするために紙に「幸福」と大書して子どもたちに見せ、「シンフー」と、ゆっくり、はっきりと発音して見せた。その後、小学校の先生から送られてきた子どもの感想の中に、○○さんが教えてくれた「シンフー」という言葉は、とても美しいことばだと思った、幸せが伝わってきた、というのがあった。おそらく「幸福」という漢字を見せずに「シンフー」と発音しても、美しいという感想は出てこなかったに違いない。また、この学生が、気持ちを込めてゆっくりと発音したことが、「幸福」という感じをよく伝えていた。ラジオ講座のゲストの発音をテープで聞いても、おそらく美しいという感想はなかったに違いない。「幸福」という語の意味だけが美しさを運んだわけではない。
また、詩人の茨木のり子の「美しい言葉とは」という文章を、高校生の頃に国語の教科書で読んだ記憶がある。改めて調べてみると、発見を持った言葉、正確な言葉、と並んで、「体験の組織化」がなされた言葉は美しいと述べられ、例として石垣りんの詩「崖」が取り上げられている。この詩は、戦時中にサイパン島で追い詰められて身を投げた女性たちのことをうたったもので、心地よさを残すような美ではない。心に突き刺さるような鋭さのある詩であろう。「体験の組織化」とは難しい表現だが、体験をただそのまま述べるのではなく、時間をかけて体の中を潜り抜け、沈殿したことばを、反芻し、練りあげることを「組織化」と呼んでいるように思う。高校生の当時、私は、これを「美しい」と呼ぶことにある種の違和感を覚えたが、だからこそ印象に残っているのだろう。茨木は、印象に残る言葉は美しい言葉である、とも述べている。茨木の言う美しさは、簡単に死なない「ことばの生命力」とでも呼ぶべきものに違いない。
ことばの意味の美しさとは、結局、ことばの形式そのものの美しさではなく、「ことばで表現されているものの美しさ」であるから、ある言語で醜いものを表現すれば醜い言語になるし、美しいものを表現すれば美しい言語になる。したがって、特定の○○語(例えば日本語)を美しいと称える態度は、その意味でも大いに怪しい。
「日本語は美しい」は誤っているとしても「美しい日本語」はある、という議論は可能である。ただ、その場合も、表されているものが美しいだけかもしれないし、その言葉の使い手が美しいのかもしれない。表されているものが美しいのであれば、それを○○語に訳しても美しいに違いない。「美しい○○語」ということになる。ことばの使い手が美しいのであれば、ほかの人が言っても美しくないものが、その人の言葉になると美しくなるのかもしれない。(上述の茨城のり子も、美しい言葉を真似してもその人と同じ美しさを維持することはできず、「言葉とは、その人間に固有のもの」で、普遍的に美しい言葉があるのかどうか疑わしいと述べている。)例えば吉永小百合が詩の朗読をすれば、それが原爆の詩であったとしても、ある種の美しさを感じる気がする。それは詩の内容が真実を伝える鍛えられた言葉であるからなのか、詩の朗読が上手いからなのか、読み手が美しいからなのか。おそらくは、それらが複合的にある種の美を形成しているのだろう。
詩も文学も言語による芸術である。そのような芸術を数多く生み出せる言語は、美を生み出せる言語である。しかし、同じ言語でも表現の仕方でいくらでも醜くなる。例えば「日本語は美しい」という人間でも日本語によるヘイトスピーチを美しいとは言わないだろう。
参考文献
茨木のり子(1983)「美しい言葉とは」大岡信・谷川俊太郎編『現代の詩人 7 茨木のり子』中央公論新社(初出『図書』1970年3月号)