今度はことばの「美しさ」について考えてみたい。言語には基本的に形と意味がある。形には音と文字がある。文字の美しさは極めれば書道になるのであろうが、これはもう一般の言語使用を越えた芸術領域であるので、ここでは論じる用意がない。
音の美しさについては、例えば母音の多く含まれる言語は柔らく聞こえるとか、子音が多ければリズミカルに聞こえやすいといったことがあるかもしれない。明治安田生命のウェブサイトによれば、2015年の女の子との名前(読み方)のトップ5はハナ、ユイ、メイ、アオイ、コハルで、k, t, s といった破裂や摩擦を含む音が非常に少ない。アオイに至ってはすべて母音である。(漢字の「葵」はすべての女の子の名前の中でトップである。)男の子の方のトップ5はハルト、ソウタ、ユウト、ハルキ、ユイトである。男の子の名前もさほど硬い感じはしないが、女の子に比べると明らかにk, t, sの割合は多い。女と男のどちらが「美しい」かということを論じるつもりはないが、性別の印象が音の印象と関係しているということは言えるであろう(音の印象に関する研究は間違いなく存在するが、それを正しく引用できるだけの知識はないのでやめておく)。
ただ、音に対する印象がどの程度普遍的なものか、というのは、ちょっと怪しい。先日、日本語非母語の芥川賞作家の楊逸(ヤン・イー)が、シリン・ネザマフィ(作品が芥川賞候補になったイラン人作家)との対談で「日本語って、すごく速い」「速い分、リズム感が強くて、非常に響きがいい」(『文學界』2009年11月号)と語っているのを読み、驚いた。私はむしろ、楊逸の母語である中国語にそのような印象を持っていたからだ(ネザマフィも「中国語のほうが速い気がする」と述べている)。結局わかりにくいものはより速く聞こえるということなのだろうか。
「○○語は美しい」とか「○○語は歌のように聞こえる」といったことを様々な言語について聞いたことがある。日本語を勉強している中国人が日本語についてそういうのを聞いたことがあるし、中国語を勉強している日本人から中国語についてそういうのを聞いたこともある。どちらも美しくて歌のような言語なのかもしれないが、音韻の体系は全くと言ってよいほど似ていない。
結局のところ、音そのものがもっている美しさよりも、その言葉につながっている何かのイメージがそうさせているか、美しいものに触れていると思いたいという願望がそうさせているのではないかという気がする。例えば、フランスのファッションを美しいと思えば、フランス語まで美しく聞こえるというようなことではないかという気がしてならない。それと同じで、ナショナリストが「日本語を美しい」と称えたところで、そうかなと疑念を抱くわけである。言葉を美しいと思うこと自体に大した罪はない。むしろ好ましい面もあるだろう。それぞれの言語にそれなりの美しさがあるのかもしれない。しかし、根拠もなくある言語をほかの言語よりも美しいと外に向かって主張する態度には政治的なものを感じるのである。
参考文献