「正しい日本語」をめぐって、第7回では「静かな住宅街」と「閑静な住宅街」について論じた。これは意味的な上位語(「静かな」)は、文脈の支えがあれば下位語(「閑静な」)の意味を表現し得る、ということであった。これはどちらも言語の規範的なルールにのっとった表現で、ただ、意味の限定の範囲の広さが異なるだけである。
第8回では「海に包まれた街」という表現について、普通の表現ではないが、文芸的におもしろい表現として受け入れられる可能性について論じた。第9回では、子どもが発した「木の掃除機」「薬の賞味期限」などの表現について取り上げた。自分の知っている語の用法を本来は使われない文脈へ拡張することで、言語運用能力の不足を補う優れたストラテジーであることを論じ、同じようなことは留学生などの非母語話者にも頻繁に生じるということを説明した。第8回、第9回で論じたのは、実は隠喩(メタファー)による意味の拡張で、言語規範の一部をやむを得ず、あるいはわざと回避したうえで、意図したことを伝えるという技法であった。
今回は、そもそも何が規範なのかを決めにくい例として、擬音語・擬態語(オノマトペとも言われる)を取り上げたい。
擬音語・擬態語は、実は以前の日本語能力試験においては、範囲外だと公表されていた。日本語には擬音語・擬態語がたくさんあり、わからないと日常生活でもかなり不便だと思うが、それでも範囲外だった。おそらく、何が正解かを明快に説明するのが難しいと考えたからであろう。雨が降るのは、なぜザーザーでサーサーではないのか、と聞かれても、みんながそう呼んでいるから、としか言いようがないのだが、実は普通の言語はそのような自然発生的なルールでできているので、本来は擬音語・擬態語だけを特別扱いする理由はないはずである。では、なぜ特別扱いされたのであろうか。
それは、擬音語・擬態語の創造性にあると思われる。時代の移り変わりとともに新しい語が次々に出てくるが、その多くはすでにある語構成要素の組み合わせやその短縮(例:「ドタキャン」「ボキャ貧」)であったり、外来語であったりする。まったく新しい語構成要素が作り出されることはほとんどないのであるが、その例外が擬音語・擬態語である。漫画を見れば、既存の語構成要素を含まない新語が次々に生み出されていることがわかる。いまでは定着度の高い表現と言える「ガーン」などもマンガに由来するという情報がネット上に散見される。定着度は不明だが、「ガビーン」もマンガに由来するようである。「ガチョーン」など、テレビ番組に由来すると言われるものもある。大野(2009)によれば、現代の短歌や俳句でも新しい擬音語・擬態語が使われているらしい。
擬音語・擬態語は音や状態を言葉で表現したものなので、音や状態の切り取り方について、社会的に共通のルールを明確に説明しにくい以上、誤りだと言いにくいのであろう。しかも、同じことを表現するのに、他の言語にもオノマトペがあることが少なくない。以前、私が中国に留学していたころ、よく世界各地から来た留学生たちとオノマトペの話題になった。おまえの国の鶏はどう鳴くんだと聞かれて「コケコッコー」だと言ったら大笑いされたことがある。絶対そんなふうには鳴いていないというのだが、じゃあ、お前の国ではどう鳴くんだと聞くと、「オ、オオー」だという。どうも鳴き方が1回少ない気がするが、それを日本語の表現として使ったら間違いかと言われれば、そうとも言えない。そう聞こえたのだから、そう表現してもいいはずである。猫のことをニャーニャーではなく、ミューミューと鳴いていると書いたところで、それは誤りとはいえないであろう。
しかも、オノマトペには複数の言語でかなり共通性の高いものとそうでないものがあるようだ。牛の鳴き声は中国でもモウモウらしい。英語の猫の鳴き声のミューミューは鼻音(鼻から抜く音)だという点ではニャーニャーと同じである。日本語でもミャーミャーは猫に使うであろう。コケコッコーとクックドゥルドゥルドゥー(英語)はかなり違うように見えるが、実は子音のほとんどが破裂音(k,dなど)で、二重子音(促音の「ッ」)を含んでいるという点では共通である。なまじっか共通性があるだけに、どれが正しい、という規範を決めるのも難しい。他言語の擬音語・擬態語を日本語に移し替えて使えば、それはそれでおもしろい表現として受け入れられるかもしれない。
参考文献
大野純子(2009)「現代短歌・俳句に見る新語オノマトペ ―既存のオノマトペからの派生をとりあげて―」『大正大學研究紀要 人間學部・文學部』94, pp.184-172.