語彙が不足しているために、他の語で代用した結果、ユニークな表現が生じるのは、母語話者の子どもにも頻繁にみられる。私の娘の幼児期のおもしろい表現に「木の掃除機」「薬の賞味期限」がある。近所の子どもが「男の犬」と言ったのを聞いたこともある。
「木の掃除機」は箒(ほうき)のことである。彼女は先に掃除機を知っていて、そのあとで箒について学習したために、このような表現が生じた。「掃除機」が「機械」であるということを知らなかった一方で、掃除機が掃除をするために使われるという機能は理解していたのである。「掃除‘器’」と漢字を変えれば通じる表現かもしれないと思わずうなった。
「薬の賞味期限」は「賞味期限」が「食品」に使われるということを無視して、それを薬に適用したために生まれた表現である。確かにおいしい薬もあるな、とほくそ笑んだ。「男の犬」は言うまでもなく、オスの犬のことだが、「男」が人間であるという意味を無視している。
これらの例を見てわかるように、ある語の用法の拡張は、その語の意味を構成する複数の意味要素(意義素とも呼ばれる)の一部を回避することによって生じる。
例えば「そよ風が微笑んでいる」と言えば風を人に見立てる擬人法(これも隠喩の一種)だが、これは「微笑む」は人がすることという意味要素を意図的に回避している。昔(おそらく1970年代)、「頭がピーマン」という表現が少し流行した。「頭が空っぽ」で中身がないという意味だが、「頭がピーマン」も「頭が空っぽ」も隠喩である。前者はピーマンが持つ属性のうち中が空っぽというところだけに着目し、食品であるという意味は完全に回避している。「頭が空っぽ」は頭を箱か何かに見立てた表現だと感じられるが、「空っぽ」が本来使われるべき物理的な空間の意味は回避されているのである。隠喩は類似性に基づく意味の拡張なので、何かと何かが似ていれば、その他の意味要素は回避される。ある部分が回避されて本来のところからズレることで表現としてのおもしろさが出てくるのである。
自分の知っている語の意味を本来使われるべき文脈以外のところへ拡張することで、言語運用能力の不足を補うというのは、実はかなり優れた能力で、コミュニケーション上の方略[communication strategy]とも呼べるものである。そのようなことができれば、外国語学習の早い段階からその言葉を「使える」ようになる。そうして生まれた新しい表現が社会に広まって定着すると言語変化と呼ばれるようになる。「頭が空っぽ」や「頭の中が白くなる」なども初めは臨時的な表現として誰かが使ったのであろう。それが優れた表現であったために定着したものと思われる。「アクセスする」はコンピュータの普及に伴って用法が拡張している語だが、このように社会の変化に伴って用法が拡張することもある(注1)。
このような表現を生み出すチャンスは、子どもや、留学生などの非母語話者にも十分にあり得ることであろう。表現をずらすことで言いたいことが何とか伝えられるようになるからである。
参考文献
注1:国立国語研究所(2006)「『外来語』言い換え提案 第1回~第4回 総集編」によると、「アクセス」は「定着に向かっている語だと思われ,「アクセス」をそのまま用いることにさほど問題のない場面も多いと思われる。ただし,60歳以上では半数以上が分からない語であり,言い換えや説明付与が望まれる場合も多い。」とされている。